ふくちゃんの「暇つぶしの独り言」     14-9-1  
      高女・日本女子大を経て成美英語学校に学びました。
 体が弱く孤独を好む子供でしたが、成績だけは抜群だったようです。御茶ノ水在学時代には、学校の教育方針に反抗して「修身の時間」をひとりボイコットするような強い内面を持つ子供でもありました。
 雑誌「青鞜」は五年で廃刊になりますが、数多くの話題を提供し論争を巻き起こしました。「新しい女」「貞操論争」「堕胎論」「母性保護」等々です。文芸誌よりも「婦人問題誌」として名を馳せたといえます。
 戦後のらいてうは、全面講和・原水爆禁止運動を通じて、やがて婦人解放の到達点を社会主義社会の実現の上に展望するのですが、これは理論的帰結というより、時代の潮流だったと言うべきなのかもしれません。
 いずれにせよ、「平塚らいてう自伝」は日本の婦人解放運動の暦史そのものであったと言えるでしょう。   


「元始、女性は太陽
であった」
 全4巻

平塚らいてう

大月書店

各1200円

1978年版
 「元始、女性は太陽であった。真正の人であった」と、平塚らいてうは「青鞜」創刊号(明治四十四年1911)にあの有名な巻頭言を書きました。日露戦争、辛亥革命、ロシア革命の波に揺さぶられ、日本も列強に伍して世界に歩を進めようとした時期であり、国内では天皇機関説、民本主義等の「大正デモクラシー」が同時進行する複雑な時代でもありました。
らいてう二十五歳、女性の自我確立・自我開放を目指す出発でした。彼女の巻頭言、与謝野晶子の巻頭詩「山の動く日来る」に魂を揺さぶられ、多くの女性が青踏社の下に集まったのです。神近市子・伊藤野枝・市川房枝・山田わか・荒木郁子・与謝野晶子等々・・・。平塚明子(本名)は、父・定二郎(伊藤博文の下で新憲法制定の仕事に携わる)、母・光沢の三女として明治十九年東京麹町に生まれな何苦労無く育てられ、御茶ノ水
 
 「青鞜」から「新日本婦人の会」まで