赤い夕日の満州に生まれて
          
「満州は日本の生命線である」と言われ、かつて百五十万人を超える日本人が住んでいた。父も新天地を求めて満州に雄飛した当時の青年達のひとりである。満鉄に就職し、母と出会い、昭和十年、奉天市で私が生まれた。
 昭和六年満州事変(柳条湖事件)、翌年満州国の建設、昭和十二年には日中戦争(盧溝橋事件)が勃発する。時も場所も、日本が敗戦への道を歩み始めた最中のことであった。

 父の転勤に伴って大陸各地を経て、再び奉天に戻ったのは昭和十八年、国民学校二年生の時である。当時の奉天は治安も良く、日本人も多かった。冬の厳しい寒さを別にすれば、日本内地よりも豊かで恵まれた生活を営んでいたのではないだろうか。
しかし、ソ連参戦とそれに続く敗戦によって状況は一変した。日本は全ての統治権を失い、ソ連軍と中国八路軍の軍政下での生活が始まったのである。会社・銀行は活動を停止、鉄道・警察も軍の手に委ねられた。水道・ガス・電力の供給も全面ストップ。学校も休校となり、ソ連軍の兵舎になっていった。
収入は途絶え、銀行預金も閉鎖され、やがて極度のインフレが生活を追撃する。ソ連兵による略奪・強姦が横行したが、日本人には自衛の手段は何もなかった。
更に厳しかったのは冬将軍の到来である。暖房のない満州の冬は凍てつく。北満から逃がれて来た開拓民たちには餓えと凍死の危機が待っていた。国の庇護を失った同胞の悲劇が繰り広げられたのである。
 我が家の暮らしも、いつしか家具や装飾品等を街頭で売ることによって支えられるようになっていた。いわゆる「売り食い」である。子供心にも両親の苦労が察せられた。
夜は停電のため暗闇の生活になる。その中でソ連兵の略奪は毎夜のように続いた。

 引揚げが始まり、僅かばかりの荷物を手に奉天駅で無蓋車に詰め込まれたのは、敗戦から一年経った昭和二十一年八月のことである。
西へ向かう難民列車から見た「大きく真っ赤な夕日」の美しく悲しかったのを今も忘れることが出来ない。私の心の原風景である。

 米軍用船で、親子三人が命からがら故国の土を踏んだのは九月も中旬を過ぎていた。父五十四歳、母四十一歳、私十一歳の秋である。

 古希を迎えて、当時のことがしきりに思い出されてならない。夢を託して渡った満州を追われ、失意と不遇のうちに逝った父母の無念さを思うと悲しい。
 五年前妻を伴って瀋陽(旧奉天)を訪れた。長年の宿願である。が、親子三人が暮らした痕跡を見つけることは、叶わなかった。

     (平成十八年四月三十日)