ハッピー・リタイヤメント
          
「今後は、豊かな時の流れを実感するような暮らしを・・」と書いたのは六年前、現役退任時の挨拶状の中である。偽らざる当時の心境であった。

 昭和三十三年に大学を卒業、電器メーカーに就職して四十二年間、時に失敗をしながらも挫折はせず、多くの人と出会い、仕事を重ねてきた。先ずは悔いのない職業人生であったと言える。
 それでも、最後の一年は肉体的限界を感じていて、定年の日を指折り数えながら待ったのが正直なところであった。感慨はあるが動揺や不安はなく最後の日を迎え、挨拶でもためらうことなく「ハッピー・リタイヤメント」と口にすることが出来た。
 会社からいくつか仕事の話もあったが、いずれも丁重に断り、自由にさせてもらった。
 ところが半年もすると、自由というものが案外面倒であることが分かって来た。自ら求めなければ、何事も始まらないからである。
 そこで先ずは「自動車の運転」と「パソコン操作」を習うことにした。六十五歳の手習いである。
 同年配者もいるパソコン塾はまだしも、自動車教習所の方は二十歳前後の若者ばかり。反射神経や頭の柔軟性の衰えが心配だったのだが、結果は「結構やれる」と、かえって自信をつけることになる。
 ゴルフが目当ての運転免許は別として、パソコンの方には、念願の「自分史」に取り組むという、実は新しい目論見があった。
旧満州に生まれ、ソ連の占領下で過ごした戦後の一年間。帰国後は、困窮のために日本各地を転々とした両親との暮らし、学生運動に明け暮れた若き日々、起伏に富んだ会社生活の記憶等を「この機会に書いて置かなければ、次に進めない」という思いが強かったのである。誰かに読んでもらうことを期待する
のではなく、ただ自己(おのれ)の心に刻む墓碑銘のようなものであった。
 地域社会とつながりを作ることも、かねてからの課題であった。いつまでも「会社だけ人間」でもあるまい。
結局「自立、奉仕、助け合いを基本に、高齢社会に相応しい地域社会つくりに・・」という文言に吸い寄せられて、あるNPO法人に入会した。現在は、小児麻痺で下半身不随になった少年の通学を介助している。そんな中から、新しい友人たちも出来た。彼らと酌み交わすビールの味も、これまでとは違う。

「豊な時の流れを実感する暮らし」のイメージとは随分異なっているが、それでも自由で気侭には暮らしてきた。「自分史」も書いた。
さあ、次はどうする。(06・7・11)