「それでいいのだ蕎麦打ち男」
            
 蕎麦打ちを始めて八年になる。
腕前は未だ初級の域を出ていないと思われる。最近になって少しは五感を使って打つことができるようになったところだ。
 蕎麦好きの歴史は結構古い。新婚間もなく出雲大社に詣でた折、老舗「荒木屋」で「割り子三代そば」と出会い、蕎麦に魅了された。思えば四十年も昔のことである。
 蕎麦好きに拍車がかかったのは、蕎麦屋の多い東京に勤務するようになってからだ。休日には妻と有名店によく足を運んだものである。
そんな時、行きつけの蕎麦屋の親爺から「蕎麦打ちやってみませんか」と声がかかった。合羽橋で道具を揃え、蕎麦打ちの「いろは」を学んだのだが、一年もしないうちに親爺のガス中毒事故死があって中断してしまった。

二年後定年で会社を退き故郷の大阪に帰ることになるが、中途半端になった蕎麦打ちへの思いはずっと心に残っていた。
と、ある日、市の広報紙で「蕎麦づくり(栽培)体験教室」の記事を目にして応募する。これが縁となってH氏に巡り会った。H氏は蕎麦屋「M庵」の店主で七十二歳。「本物の信州蕎麦をぜひ大阪の人に味わって欲しい」と、開業したという。
「信州の田舎蕎麦が本来の姿」が氏の蕎麦哲学。主張はともかくも、その情熱にほれ込んで早速弟子入りをしたのである。
それから三年、氏の指導の下で蕎麦打ちを毎週続けている。一向に上達しないのは冒頭に記した通りだが、打つ度に何か新しい発見があり、それを確実に身体が覚えて行く。奥行きが深く、とにかく面白い。

 残間里江子さんは随筆「それでいいのか蕎麦打ち男」の中で「人生八十年、まだまだ老け込むには早すぎる。“小さな幸せ”に引き篭もるな」と団塊の世代に喝を入れた。私は彼らの一世代前の人間。そこで「それでいいのだ蕎麦打ち男」と居直ってみた。
 最近は「スローフード」がはやりだが、蕎麦粉と水だけを素材に、「水回しから包丁」まで僅か三十分が勝負の蕎麦打ち。単純さが生命だけに職人の技がものをいう。毎回、この世に二つと無い味が作り出されてくるのである。蕎麦こそ「スローフード」の真打と言えるのかもしれない。
 蕎麦屋の開業を目指すわけでもなく、隣近所に振舞う勇気もないまま、ひたすら妻と娘に食べる犠牲を強いている。それでも「今日の蕎麦は美味しかった」のひと声が来週への意欲を掻き立てる。
 蕎麦をたぐりながら飲む酒の味も格別、忘れられない楽しみの一つである。  06・5・26