「赤い夕日の満州」に生まれて
            
 奉天駅を出て驚いた。
二週間前とは様相が一変している。駅頭が赤一色に染まっているのだ。ビルというビルの窓から大きな赤旗が下げられ、通行人も赤い腕章をつけている。出入りする洋車(ヤンチョ)やタクシーにも赤い旗が揺れていた。「斯大林(スターリン)大元帥万歳」「歓迎英雄的紅軍」の文字も目に入る。

 ソ連参戦(昭和二十年八月九日)の翌々日、生徒全員が校庭に集められて、校長から「明日から休校になる」と告げられる。これまで比較的平穏であった奉天が、俄かに慌しくなってきた。
「女子供は南へ避難せよ」と関東軍から命令が出る。奉天が日ソ両軍の決戦の場になるらしい。父を残して母と二人で、奉天駅を後にしたのは、翌八月十二日のこと。心細い旅立ちであった。
 避難先は、奉天から南約百五十q、遼東半島の付け根にある大石橋(だいせっきょう)。三日後ここで天皇陛下の「終戦の詔勅」を聞くことになる。当時十歳だった私には、敗戦が我々の将来に何をもたらすことになるのか、知るよしもなかった。奉天に戻ったのは、八月も終わりに近かった頃である。

 奉天駅頭で初めて「赤旗」と「赤ら顔の大男たち」を見る。彼らの手には、通称「マンドリン」と呼ばれる七十二連発銃があった。ソ連軍占領下の暮らしの始まりである。
 電気・水道・ガスのライフラインが止まったのが最初の衝撃であった。その日から、近くの井戸から水を運ぶのが、父と私の日課になる。電灯の点らない夜は長い。蝋燭も直ぐ無くなってしまった。
 治安が見る間に悪化する。ソ連軍人の邦人に対する暴行が頻発した。街頭では腕時計が強奪され、夜になると、民家に押し入る強盗、婦女暴行が日常化したのである。武器を手にする彼らに対して抵抗する手段はない。若い女性は断髪して、胸には「さらし」を巻いて外出していた。もちろん男も、夜は外出をせず、家の暗闇の中で、息をつめて朝の来るのを待っていたのである。静寂を破る拳銃の発射音や女性の悲鳴を聞くことも珍しくは無くなった。路傍に放置された射殺死体にも、いつの間にか慣れてしまった。
 学校は依然として休校が続いていた。ソ連軍に接収された校舎は荒れ果て、授業が再開されることは無かった。
 冬将軍が直ぐやって来た。満州の冬は凍てつく。暖房(スチーム)の無い暮らしは厳しい。身体を温める風呂にももちろん入れないのだ。
 更に過酷だったのは、北満から逃れて来た
開拓団の人たちであった。飢えと寒さに加えて住む家が無い。餓死・凍死者が続出するのは当然であった。友達と二人で偶然入ったお寺の境内で、邦人と思われる数十の死体が、掘られた穴の中に無残に捨てられているのを目撃したことがある。数日間は食欲が出て来なかった。
 ソ連軍の軍票乱発のため、極度のインフレが襲いかかって来た。日本人の殆どは収入の途を閉ざされている。銀行も閉鎖だ。残されたのは「売り食い」だけである。街路には家財を売る「みかん箱とアンペラ一枚」の日本人の店が増えていった。我が家も自宅前で家財・家具を叩き売ったのである。
 雪が解け、春の陽射しが戻ってくる頃になって、ようやく「引き揚げ」の噂が流れた。希望の光が見えて来たのである。
 そんな時、よりによって私が「発疹チブス」に感染してしまった。邦人系の病院は、規模の大小を問わず閉鎖されていた最中(さなか)のことである。近所に住んでいる医師の好意で診察を受けたが、手持ちの薬も少なく、対処療法の域を出ない。自然治癒力だけが頼みであった。
連日、四十度を超える高熱に苦しんだ。一時は「もう駄目か」というところまで行ったのだが、運命の女神は私を見捨てず、九死に一生を得た。体力の回復には時間がかかったが、ギリギリ「引き揚げ」に間に合った。
我々を乗せた「難民列車」が、奉天駅を出発したのは、敗戦からちょうど一年経った八月のことである。列車は石炭を積む「無蓋車」で、真夏の直射日光は遠慮会釈なく照りつけた。もちろんトイレがある筈も無く、機関車の給水の間に汽車を降りて用を足すのだ。
途中、名所「大虎山(たいこざん)」で停車中に、馬賊の襲撃を受けた。深夜のことである。馬の蹄の音が激しく迫って来た。危機である。リーダーの指示で、一斉に全員あらん限りの声で叫ぶ。「抵抗の意思」を感じたのか、馬賊は去って行った。咄嗟の判断が我々を救ったのだ。
米海軍の大型上陸用舟艇で「葫盧(ころ)島」を出航したのは九月も半ばを過ぎていた。
「生まれ故郷の大陸」が遠くはるかに霞んでゆく情景は、難民列車から見た「真っ赤な夕日」と共に、今もなお脳裏に強く焼きついて離れない。私の心の原風景である。
 玄界灘を越え、博多港沖に到着したが、上陸許可がなかなか出ない。ある夜、無聊を慰める「船上演芸大会」が催された。と、会場に並木路子さんの「りんごの唄」が流れる。

赤いりんごに  唇寄せて
 黙って見ている 青い空
 りんごは何にも 言わないけれど
 りんごの気持は よく分かる
 りんご可愛いや 可愛いやりんご

一瞬、会場が静まり返った。すすり泣きの声が広がる。ようやく日本へ帰って来たのだ。
父五十四歳、母四十一歳、私十一歳であった。(06・7・19)