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「伊吹蕎麦天下にかくれなければ、からみ大根またこの山を最上とさだむ」(風俗文選・森川許六・1706年)とある如く、かつて伊吹 は蕎麦の名産地であったと言われる。役小角が伊吹山麓に太平寺と弥高寺を建立、多くの修験者が集まり山岳信仰の拠点となっ た。太平寺は標高450mの伊吹山(1377m)中腹にあり、周辺は一面の蕎麦畑であったと伝えられる。彦根藩主・井伊直弼(1815〜 1860)もそばの大愛好者であり、井伊家から徳川将軍家への献上物リストにはそばの名が残されている。また、近くの多賀大社は 「寿命長久」のご利益が有るとされ、門前・境内の休憩茶屋では「寿命そば」を味わうことが出来る。明治に入ってそばの栽培は廃 れてしまい、「伊吹ソバ」の名も薄れ忘れ去られようとする中で、ようやく最近になって再生への動きが始まっているとも聞くのだが。 |
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もんぜんや(彦根) 08-5-28 | 伊吹野そば(米原・伊吹) 08-5-28 | 上段:多賀大社本殿 下段:寿命石 |
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彦根城からの一本道・夢京橋「キャッス ルロード」にある。こじんまりした綺麗なお 店。十割そばを注文する。やや短めの硬 い出来上がり。粉は北海道の「きたわせ」 、出汁は関東風のやや辛目であった。 |
伊吹山麓にある観光客の繁盛店。15分 ほど待つ。売店・そば道場も併設。そば は白っぽく、咽喉越しがよい。出汁は甘 口。粉は地元伊吹産とのこと。加水から 練までは職人が、「延しと包丁」は機械。 |
「伊勢へ七度び、熊野へ三度び、お多 賀さんには月詣り」の「近江多賀大社」。 境内に「寿命石」があり、秀吉が寄進し た「太閤橋」もある。江戸蕎麦の初見 「慈性日記」は此の社の僧慈性が書く。 |
蕎麦とつなぎ 江戸初期のそば切りは蕎麦粉十割が普通であったが、つながりが悪くぶつぶつに切れてしまうので「蒸し蕎麦切 り」が流行した。江戸中期になると「つなぎ」に小麦粉を使うようになった。小麦粉には加水するとグルテンになるたんぱく質が含まれ いるので、咽喉越しが滑らかでつながりも良くなり、これが江戸っ子の人気を呼んだ。江戸蕎麦(二八)の誕生である。これに対して 地方では小麦粉の入手が難しいため、つなぎには「長いも」(各地)を始めとして、ヤマゴボウの葉(長野)、よもぎ(長野・新潟)、ふ のり(新潟・小千谷)等々郷土色豊かな食材が使われていたのである。つなぎが蕎麦の品書きを多様にしたといってもよい。つなぎ の使用比率によって、十割、二八だけでなく九一・七三・外一・外二など様々な味わいの異なる蕎麦が続々誕生して来たのである。 |
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