明治初期の産業振興と「蕎麦」             17-7-1
維新後の明治政府は統一国家確立のために「国防の強化」と「産業振興」に全力を傾注した。全国で各種の博覧会が流行し
その代表ともいえるのが政府主導の「内国勧業博覧会」であった。第一回は明治10年(1877)に東京・上野公園で行われ、面
積29807坪、出品数14455、入場者454千人で、当時としては最大規模の博覧会だった。その博覧会出品物の中に「大日本物
産図絵があった。歌川広重によって118点の「各地の名産品とその工程」が描かれていて、写真未普及の当時を伝える貴重
な史料であり、そのNo43に「信州蕎麦切製造之図」が収められている。信州の蕎麦屋の実像を写実的に描いたものと考えら
れる。そばを「手駒(てごま)」で切っている姿、「包丁」も現在とは形が異なっている等、現代に伝える貴重な史料である。
守破離(大阪・谷町四丁目)
17-6-23
上:大日本物産図絵(上クリックで拡大)
下:第一回内国勧業博覧会会場
胡桃亭(那須塩原) 17-5-23

常に行列の出来る超繁盛店。土山人出
身のオーナー橋本洋輔さんは「守破離」
の心を忘れずにそば打ちに励む。もてな
しもそばも一級品。梅田に支店もある。
「守破離」は弟子が師匠を止揚する姿。
上段:歌川広重が描く信州そばの製造
工程「信州蕎麦製造之図」である。
「大日本物産図絵」のNo43に収められ
ている。下段:第一回内国勧業博覧会
のスケッチ。当時の近代建築であった。
岐阜の名店「吉照庵」に胡蝶庵仙波の店
主と共に修業し独立した。粗挽きの十割
は限定数の販売。名物のせいろである。
店主の村上さんは名古屋で割烹も学び
蕎麦+料理+日本酒の世界を作った。
 
第五回勧業博覧会と製麺機 明治時代に入ると、手打ちそばの世界に製麺機が登場することになった。文明開化の波
が押し寄せて来たのである。明治16年、佐賀県人・真崎照郷が開発し明治36年の第五回内国勧業博覧会(大阪)に出品して
実演が大人気を博し一等賞に輝いた。手打ちは不潔で時代遅れ、機械万能という時代の風に乗ったといえよう。ところが機械
化とはいえまだ人力を必要とした上に高価であったため採算性が悪く本格的な普及はモーターによる完全自動化が実現する
昭和を待たなければならなかった。戦後の経済復興と共に製麺機は時代の寵児となるが、昭和40年代になると片倉康雄等の
努力によって再び「手打ち」が復権して来た。現在では夫々の長所を生かした「手打ち・機械打ち」共存の時代を迎えている。
 
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