「ケの食」から「ハレの食」へ・・・そば文化誕生      19-4-1       
縄文時代に大陸から渡来した「そば」は対馬・九州を経て急速に全国へ伝播した。当初は粒食(・そば米・粥)として、、「ケの食」(日
常)として中山間地で愛されるようになった。「そば」の初見は元正天皇の詔勅(722年・救荒食として推奨された)である。鎌倉時代、
栄西・円彌等禅僧によって宋から茶臼や製麺技術が渡来し、15〜16世紀頃になってようやく「そば切り」が誕生して禅寺伝いに普
及したと思われる。禅寺→大名→庶民に伝播し、やがて晦日そば・年越しそば・振舞いそば(収穫・祝言・法事。棟上げ・来客)等の
「ハレの食」へ変貌して行った。江戸時代になると屋台の蕎麦屋(外食)が生まれ、寿司・天ぷら・かば焼きなどと並んで江戸の食文
化の一翼を担っうことになった。世界にソバ消費量の多い国はあるが、日本で初めて類例のない「そば文化」が誕生したといえよう。
団楽(京都・北大路) 18-12-3 そば切り発祥の地碑と祝言振舞い蕎麦 玄盛(大阪梅田) 19-3-13

創業時は和食の店としてスタートしたが、
10年前に蕎麦屋になった。重い歴史は
ないのだが店構え・店内・中庭は老舗の
風格がある。石臼挽き十割が看板であ
る。丼物もあるがれっきとした蕎麦屋だ。
上段:木曽路・本山宿に建つ「そば切り発祥の地の碑。森川許六が「風俗文選」で
本山宿がそば切り発祥地であるとした。
下段:祝言そば振舞い 。披露宴の最後
に「そば口上」とそば振舞いがあった。
曽根崎新地入り口にある蕎麦屋。夜は飲
み屋にもなる。57席。機械打ちだが、それ
と判別し難い仕上がり。「天盛りセット」を
食べたが、丸々太った海老が二本。1200
円。夜再訪したいお店である。
 
「信州そば」の名声  「本朝食鑑」(元禄8年・1695)に「武蔵、上総、常陸の国もソバを多く産出し味も悪くないが、信州には及ば
ない」とある通り、三百年以上も前から「信州そば」は一級品といわれていた。山地面積・全国第二位、年間平均気温・第五位(12
℃)、中山間地集落数第一位のソバ栽培に適した環境条件に恵まれ、特産地も秋山・富倉・柏原・戸隠・鬼無里・小川・美麻・安曇
野・奈川・開田・遠山郷の山村は、夏でも霧が深く日照時間の少ない上に火山灰土に覆われた痩地が多い。このような環境で作ら
れる「霧下そば」は収量は少ないが、実が締まって美味である。生産量では北海道に及ば無いとはいえ、常に「そば文化」の中心地
であり、名声の轟くこと現在もなお変わりはない。「そば切り発祥の地」の
伝承が長く続いていることも故無しとしないのである
何故