近江国の蕎麦物語

  近江国は、日本最大の湖・琵琶湖(盆地)を囲むように湖北に伊吹山地、湖東に鈴鹿山脈、湖南は信楽高原、湖西には比
 叡・比良山系が連なっていて、昼夜の寒暖の差が激しい山間地特有の気候の地が多いためか、古代からソバ栽培が広く行われ
 ていました。今ではあまり知られなくなった「近江国のそば物語」を、①伊吹山はソバ栽培発祥の地? ②延暦寺・千日回峰とそ
 ば ③大正天皇と坂本・門前蕎麦 ④平成に蘇るソバ栽培・・の順でご紹介してみましょう。先ずは①から・・・

     ① 伊吹山はソバ栽培発祥の地
 

  「伊吹蕎麦天下にかくれなければ辛味大根またこの山を最上とさだむ・・と 

 芭蕉門下十哲の一人として有名な森川許六(一六五六~一七一五)が、「風俗文選」の中で伊吹蕎麦の当時の世評を伝えて
 います。領主であった井伊家から徳川本家への献上品に伊吹そばが入っているという記録や、「伊吹町史」(通史編上)の「寛
 文八年」(一六八八)の伊吹山図によると八合目付近まで耕地の半分がそば畑で・・」という記述を見ても、伊吹山麓が全国有
 数のソバ栽培地であったことは間違いないようです。

  ではなぜ伊吹山で栽培が始まったのでしょうか?  
   一つには、傾斜地で水はけが良く、冷涼な気候、昼夜の寒暖差が大きい気候、土壌が石灰岩質であるというソバ栽培に適し
 た自然条件がありました。

  それだけではなく伊吹山は日本七高山(比叡山・比良山・伊吹山・愛宕山・金峰山・葛城山・神峰山)の一つで、平安の昔か
 ら山岳密教の修験の場として多くの僧房が建ち並び、全国から山伏たちが集まって来て隆盛を極めた場所でもありました。山岳密
 教は山門内に五穀(米・大麦・小麦・大豆・小豆)を持ち込むことが禁じられていて、修験者たちは「そば」で命を繋いでいたと言わ
 れています。そのため伊吹山の中腹にある代表的な寺院・太平護国寺と弥高寺の周辺は一面のソバ畑で、開花時には伊吹山の
 西斜面が真っ白に染まる姿を遠く琵琶湖対岸の高島辺りからも望まれた?といいます。さぞ素晴らしい景観だったことでしょう。

   また「わが国最初の栽培地は近江の伊吹山下で、その後美濃・信濃・甲斐の山国に発達し、更に関東・東北・北海道にまで
 普及した」と「伊吹町史」(前掲)にあるように、古くから伊吹山麓をソバ栽培発祥の地とする説が伝承されてきました。果たして本当
 なのでしょうか? 今となっては真偽を正すことも難しいので、この議論は少し置くこととして、伊吹山はかつて東西の文化が交わる
 地点であり、陸路・海路がぶつかり合う交通の要衝でもありました。当然、伊吹山麓を往来する旅人も多く、ソバ花の景観が旅人
 の目を楽しませ、人々の口の端に上る機会も多かったことが想像されます。この辺りに「伊吹山ソバ栽培発祥の地」説が広く流布
 する秘密があると考えるのですが如何でしょう。

  しかし時代の変化と太平護国寺の衰退に伴ってソバ栽培も次第に廃れて行き、江戸末期から明治時代になるとすっかりその
 名声は忘れ去られるようになりました。そんな中でも太平護国寺のあった太平寺村ではその後も名産品としてソバ栽培を続けてい
 たのですが、長期間にわたって豪雪の続いた昭和三十八年、交通途絶と雪崩の発生に怯えた農民たちは、ついに畑を売り払い
 村ごと集団移住することを決めたのでした。これで伊吹ソバ栽培に終止符が打たれた、と当時の読売新聞は伝えています。

   なんと悲しい物語ではないでしょうか。それともそう思うのはそば好き人間の単なる感傷でしょうか。

   「辛味大根またこの山を最上とさだむ」
   伊吹そばを語って「辛味大根」に触れないのは片手落ちだとあの世から森川許六に叱られそうですから、そばと並ぶ伊吹の名
 産・辛み大根について少しお話しておきたいと思います。

  そばと同様に辛み大根も冷涼地・昼夜の寒暖差を好み、土壌も肥えた黒土ではなく粘土質の赤土を好む伊吹伝統野菜の一
 つです。収穫はソバに少し遅れて十一月頃から翌年の三月頃で、最大の特徴は普通の大根に比べ雪の下でゆっくり生育すること
 で、きめの細かい辛味の強い大根です。形も独特で、長さが二十センチくらいでお尻が丸く寸胴で、ねずみのような尻尾がついてい
 ます。伊吹では「ネズミ大根・けっからし大根」とも呼ばれていて、
摺り下ろしたお味は辛みが強く、そばとの相性は抜群で最高の薬
 味だと言われています。味の取り合わせだけでなく、ソバに無いビタミンCを豊富に持っていることもあって栄養のバランスからも申し分
 のない、そばの大事なパートナーなのです。是非いちどお試しください。

  紙幅の関係からそろそろ第一章を終えますが、伊吹山とそばの物語はこれで終わりになるわけではありません。それについては、
 別稿「④平成に蘇るソバ栽培」で詳しくお伝えすることにしたいと思います。



                             TOP