近江の国の蕎麦物語

  司馬遼太郎氏の「街道をゆく」は全四十三巻、日本全国の街道を走破しその歴史を最後の二十年間をかけて書き尽くした
 司馬氏の代表作の一つです。その第一巻を司馬氏は「湖西のみち」から始めたのでした。また第十六巻は「比叡山の諸道」
 です。司馬氏にとって近江・湖西はきっと特別の意味があったのでしょう。琵琶湖と比叡山・比良山系に挟まれた狭く長細い
 「湖西」は歴史の詰まった地域なのです。

 
    
二千日回峰を支えた「そば」    故北嶺大行満大阿闍梨・酒井雄哉氏

   千日回峰行は天台宗が行う荒行中の荒行です。  
 およそ千二百年前、平安時代に比叡山延暦寺の相応和尚が現在の「千日回峰」の原型にあたる修行を始めたといわれていま
 す。七年間で千日、最初の一~三年間は年に百日、四~五年目は年に二百日、無動寺で勤行を終え深夜二時に出発し真
 言を唱えながら東塔・西塔・日吉大社等二百六十か所で礼拝し、毎日約三十㎞を六時間(午前八時まで)で巡拝する。五年で
 七百日を満行すると、最も過酷と言われる「堂入り」の四無行(九日の断食・断水・断眠・断臥)に入る。堂入りを終えると行者は
 「阿闍梨」となるのですが、さらに六年目は百日間を毎日六十㎞、七年目は二百日(百日は一日に八十四㎞、残りの百日は一日
 三十㎞)回峰行を行うのです。これで合計千日になるわけです。
  七年間・千日回峰行を満行すると「北嶺大行満大阿闍梨」と呼ばれることになります。

  これで行が終わるわけではなく、二、三年以内に百日の「五穀断ち」(米・麦・粟・豆・稗と塩・果物・海藻)と七日間の断食・断
 水で十万枚の大護摩供を行うことになります。この荒行を二回も満行(つまり二千日回峰)した人が、これまでに三人(一五七一年・
 織田信長の延暦寺焼き討ち以降)います。その中の一人が酒井雄哉氏(一九八〇年と一九八七年満行)なのです。この荒行を
 十四年間(七年×二 回)、ほとんど休まず続けるには、それを支える並外れた意志の力と体力が必要でしょう。

  
  私の友人K氏が社用(故松下幸之助翁の命)で酒井大阿闍梨に御目にかかったことがあります。その際に「満行のための体力
 はどのようにしてつけられたのですか」の問いに対し大阿闍梨は即座に「そばと水、そして寝ることです」と答えられたと聞きました。
ちょ
 っと呆気ないお話なので、もう少し詳しく「千日回峰とそば」の関係を、酒井大阿闍梨の伝記「生き仏になった落ちこぼれ」(著者・
 長尾三郎)から拾ってみましょう。「荒行が始まっても、酒井の食生活はいたって質素なものだった。一日の行から戻り、老師の世話
 をしたあと、自分の食事をとる。メニューは、そばかうどん一杯、ごま豆腐半丁、ジャガイモの塩蒸したのを二個。これだけである。同じ
 ものを夕方にもう一度食べる」とあります。

  大阿闍梨は日頃から断食や五穀断ちのことを考え、その訓練をされていたようです。「堂入り」の九日間と「十万枚大護摩供」の
 七日間の断食・断水はもちろんですが、その間に百日間の「五穀断ち」があります。この期間は、うどんも豆腐(小麦・大豆は五穀に
 入る)も食することが出来ません。「ジャガイモとクルミを食べていたの、そば粉にキャベツなどを細かく刻んで薄い煎餅みたいに焼いたり
 してもいた」といいます。

  五穀断ちの期間だけでなく千日回峰を通じてそばが体力維持のために無くてはならない重要な役割を果たしていたのです。

  ところで、本当にそばはそんなに栄養に富んだ食物なのでしょうか?
  長野・福井・島根等が長寿県の常連なので、「蕎麦長寿説」を唱える人もありますが、それはさておき、信州大学名誉教授の俣野
 敏子さんの著書「そば学大全」によると、米・麦・トウモロコシなどの主穀に比べて抜群の栄養価を持つとあります。
そこで精白米・小
 麦とソバの成分分 析表を比較してみますと、たんぱく質で米の二倍、小麦よりも約三割多いのを初め、カリウム・カルシウム・マグネシウ
 ム・リン・鉄・亜鉛・食物繊維・ビタミンB系などは二、三倍~十倍も含有されていて非常にバランスの取れた食物といえるようです。毛
 細血管を強化するといわれるルチンを持つ唯一の穀物だということも特筆したいと思います。



                                  TOP