近江の国の蕎麦物語

   琵琶湖の湖西地域というのは、元々は瀬田川以西を指したのですが、湖南地域の発展によって、最近では比叡山麓にある
 「坂本」辺りから以北を指すようになったといいます。今回はその坂本で営業をしている、司馬遼太郎「街道をゆく」
(第十六巻
 「叡山の諸道」)
にも出て来る老舗「鶴喜そば」を巡るお話です。

 
  
③坂本「門前そば」と大正天皇  

  大正天皇がまだ皇太子(東宮)だった頃の話です。
  明治四十五年四月から五月にかけて滋賀県と三重県を舞台に行われた参謀本部参謀旅行演習を見学された皇太子が彦
 根に宿泊された折のことですが、伊吹山麓で採れる「山ソバ」の説明に皇太子は大変興味を示され「朕にそのそばを取り寄せ
 よ」と申されたといいます。随行していた当時の滋賀県知事・川島純幹氏が早速地元の老舗蕎麦屋・坂本の「鶴喜そば」に命じ
 て取り寄せたところ、皇太子は大変満足され帰東の際に明治天皇へのお土産に持ち帰られ、それ以降は年末に年越しそばを宮
 中に届けるのが「鶴喜そば」の習わしになったといいます。

  皇太子時代の大正天皇は自由奔放な性格だったようですが、この演習の時にもおひとりで蕎麦屋に飛び込んだところを地元
 新聞にスクープされたというエピソードが残っています。(原武史著「大正天皇」)
  余談になりますが、大正天皇のそば好きは相当なものだったらしく、明治四十年に山陰地方巡啓の折にも、出雲の旅館で地
 元の名店・羽根屋(創業は江戸末期)が「割子そば」をお出ししたところ大変気に入られ、「献上そば」の名の使用を羽根屋にお
 許しになりました。羽根屋本店の看板には現在も「献上そば」の文字が記されております。

  さてそこで坂本の「鶴喜そば」について書くことになるのですが、その前に比叡山延暦寺とその門前町である坂本に触れておき
 ましょう。

  比叡山延暦寺は、高野山金剛峰寺と並んで全国から多くの山伏が修行に集まり三塔十六谷三千坊を誇る山岳密教の一大
 聖地でした。最澄によって建立され、法然・親鸞・道元・日蓮等を初め多くの名僧を輩出したことは今更申し上げる必要もないこと
 でしょう。 

  比叡山麓に在る坂本は延暦寺の門前町として、また陸路・海路の要衝として栄え、室町時代には既に二~三千軒の家が建ち
 並び、人口も一万~一万五千人を数えたといいます。つまりは延暦寺の台所として、修行に疲れた僧たちを癒す里坊でもあった
 坂本は、まさに延暦寺と共に発展して来たわけです。

  仏教の修行の中には「五穀断ち」があり、修行中は主要な穀物を摂ることが出来ません。体力を維持するためにはソバ・ヒエなど の雑穀が重視されたのは当然のことでした。そういうわけで延暦寺でも早くからそばは食材として使われていたのです。
  その坂本に鶴屋喜八なる人物が蕎麦屋を開店したのが享保初年(1716~)の頃のことです。元々は鶴屋の屋号で木炭商や
 金融業を営んでいましたが、先祖から蕎麦打ちの秘法も伝わっていて、慶弔の折等に蕎麦打ちを頼まれることが多かったようです。  鶴屋の喜八が打つそばだというのでいつしか「鶴喜そば」と呼ばれるようになり、屋号も「鶴喜」にしたといいます。
一方、延暦
 寺は京都の鬼門(北東)を護る国家鎮護の目的もあったので、御所との交流は当然ながら多く、高貴な方が延暦寺を訪れること
 度々であったといいます。ある時鶴屋を呼んでそばを打たせたところ、殊の外評判が良かったので、それ以来賓客が来られると鶴屋
 がお山に出仕してそばを打つのが慣例になったといいます。こうして延暦寺と鶴喜そばの関係は長きにわたって続いてきました。現在
 は上延昌洋氏が九代目を担っていますが、上延(うえのぶ)の苗字の「延」は延暦寺から頂いたものです。電話番号が延暦寺が0001
 鶴喜そば0002であることも故あることではないでしょうか。

  大正天皇のご愛顧があったため、鶴喜そは他の宮家への出入りも許されていましたが、特に貞明皇后(大正天皇妃)の御贔 屓を頂いたのが誇りであったといいます。正面玄関上の破風には「東宮殿下賜御買上之栄」の木の額が今も架かっていて当時を
 偲ばせています。
江戸時代以前に創業して現存する蕎麦屋は数少なくなっていますが、高橋礼文氏編集の「出雲そば」(ワンラ
 イン刊)によれば、鶴喜そばは第九位にランクされています。


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