江戸の蕎麦物語②
「蕎麦は三つ箸半で食べるもの」といいますが・・・
三代目古今亭志ん朝は幼い頃、父親から「江戸っ子は、そばをおまんまの代わりにするのはよしとしない。そばやすしで腹をふくら
ますのは野暮。腹が減っているのなら飯を食え」と教えられたといいます。(雑誌「太陽」一九九八年十二月号)いつの頃からの言い 伝えなのかは判然とはしませんが、蕎麦を巡る江戸っ子伝説を物語る象徴的な挿話だと思います。
江戸っ子にとって蕎麦は今でいうスナックであり、江戸っ子の粋を示す趣味食だったようです。趣味食となると、マナーや手順が重 視されるようになるのは当然のことでしょう。江戸っ子の蕎麦の食べ方は、漱石*の「吾輩は猫である」に出て来る迷亭先生の講釈 が具体的で一番面白いと思います。
迷亭先生「この長い奴へツユを三分一つけて、一口に飲んでしまうんだね。噛んじゃいけない。噛んじゃ蕎麦の味がなくなる。
つるつると咽喉を滑り込むところがねうちだよ」「奥さん笊は大抵三口半か四口で食うんですね。それより手数を掛けちゃ旨く食えませ
んよ」と知ったかぶりを爆発させました。
汁には三分の一つける・食べるのではなく飲み込む・咽喉で味わう・三つ箸半で食べる(笊一枚)・・これに「うどん三本そば六本」 の格言(箸一つまみの適量)を加えれば一般に江戸っ子の蕎麦の食べ方と言われているものを網羅していると思われます。但し、本 当に江戸っ子がそんな食べ方をしていたかどうかは保証しかねますが、恐らく漱石も江戸っ子気取りを皮肉っぽく、からかい気味に
表現したのだろうと思います。
江戸時代中期から後期にかけて、公方様(政治)は江戸におわすものの、文化では上方の後塵を拝し相変わらず下りもの(酒・ 醤油等)が幅を利かせていました。そんな時代を背景に江戸っ子独特の美意識(粋)が生まれたといいます。江戸の粋は上方への
劣等感が生んだと言っても過言ではないでしょう。
衣の元禄から食の化政(1804~1830)時代を迎え、「蕎麦の粋な食べ方」が上方優位の食文化に対する江戸っ子の一点突
破反撃の尖兵だったのではないでしょうか?
「蕎麦の味落語の味や江戸の味」花柳喜章
いまだに東京等で、志ん朝師匠や迷亭先生のいう、盛りの極少ない蕎麦屋に出くわすことがあります。ですから私はあらかじめ注
文の際に蕎麦の量を聞くようにしています。 ああ、これはどうでもいいことでした・・・。
作家の椎名誠がエッセイ「殺したい蕎麦」の中で「どう考えても二十本ぐらいしかない。いつものように箸で蕎麦を掴んで五回上げ 下げするとすべて終了という量であった、」「殺意にみちみちたおれはこの店を出るとき最後に絶対後ろ足で戸をしめちゃろ、と思って
いたのだが自動ドアであった」とユーモラスではありますが、そばの盛りが少ないことに怒りをあらわにしています。
これだけでなく、椎名はこのエッセイから十七年前に出版された「日本の名随筆⑲・蕎麦」の中でも「パラパラとかろうじてセイロの 表面がかくれる程度にソバが薄くのせられていて、ちょっと箸ですみっこのほうからソバをからめとると、あっという間にその半分ほどが なくなってしまう、なんていうのを時々見かける。『ふざけるな!』と言いたいのである」と怒りを爆発させています。十七年間怒りを持続さ せるのは並みのことではありません。まさか?エッセイのネタ不足のせいではないでしょうね・・・。
そばの量(二十本前後)について迷亭先生は肯定的に、椎名誠は否定的ですが、盛りの少ないことでは不思議に一致していると ころが面白いでしょう? どうやら江戸(明治)の蕎麦屋は今も健在のようです。
*夏目漱石の著作には「蕎麦」がよく出てきます。ですが漱石が本当にそば好きだったかどうかについては疑問も提出されていま す。紙幅の都合でこの話は別稿に譲ることにします。
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