江戸っ子の蕎麦物語

   江戸時代のマスメディア「引き札」と蕎麦 

 江戸・明治時代を通じて宣伝のために作られた今でいう「チラシ」のことを「引き札(報條ともいう)」と呼んでいました。テレビ・ラジオ・新 聞など無い時代のことですから当時のマスメディアといってもよいのでしょうね。語源は「客を引く」、また当時は「配る」ことを「引く」と言っ
 たところから来たといわれています。

  江戸・日本橋・駿河町に開店した三井越後屋(現三越)が天和三年(1683)に「店売り・現金安売り掛け値なし」の新商法を引き札 に託して十里四方に撒いたのが最初だといいます。それまでは富裕な武家や町人宅(固定客)を訪問して行商をするのが普通でしたが、 庶民の購買力向上に伴って不特定の大衆に商域を広げるのに必要な新兵器(経営モデル)だったわけです。

  山東京伝・十返舎一九・式亭三馬・河竹黙阿弥等の戯作者(コピーライター)、喜多川歌麿・葛飾北斎・歌川国重等の著名絵師
 (グラフィックデザイナー)も数多くの引き札作品を残しています。
なかでも有名なのが平賀源内の「土用の丑、うなぎの日。食すれば夏負 けすることなし」(明和六年・1769)のコピーです。現在も八月の土用の丑の日にはうなぎ屋の店頭に行列が出来るのはよくご存じのこと です。二百五十年間も通用するコピーなんてそうざらには無いでしょう。

  蕎麦屋も開店お披露目の際に引き札を作って配布したようで、作品が多数残っています。その一例(山東京伝作)をご紹介しましょう。

  
  手打ち生蕎麦「峰の白雪」口上    神田通新石町「六花亭」

  花白く茎赤き蕎麦畠は、都鳥の群れいるかと疑い、大根卸に唐辛子は、紅葉に霜を置けるが如く、(中略) 蕎麦切り色の褌は、身代を持ち直し、悪抜の饂飩には正直の名を得たり。(中略)むかしが今に至るまで、蕎麦好は少なからず、ところへ付込むわが新舗(新店)、花のお江戸の四里四方、通り町から新道まで、そばやの行燈世界を照らし、我いちと、案じにあんじるは中々、世のつねの事では、蕎麦通様かたの御意に不叶。そこらは随分承知の介なれば、吉ッ粋雑りなしの生そばに仕込みし、したじも山十(醤油のブランド)に土佐節をつかい、去る程に大安売仕り候間、何卒御贔屓御引立と思召、見勢(店)開き初日より、永当永当大入繁昌仕候よう、ひとえにひとえに希うものから、錦手(上絵を付けた陶磁器)の猪口より、ちょっと引きさき箸(割り箸)をこう持って、木地蝋色の膳のうえに、でたらめ御演書、よしなに御覧くださりましょう。(カッコ内は筆者解説)

   これらの引き札は江戸期に急発展した木版の印刷技術を駆使して大量印刷され配布されたのです。引き札の名称は大正中期まで続き、やがて現在のように「チラシ」と呼ばれるようになったといいます。チラシの語源は「散らす」から来たといわれていますが、何故カタカナ
表示なのかについては定かではありません。チラシが名詞なので字面(じづら)を明瞭にするためであったというのが有力な説です。また厳密に
いうと、チラシは既に江戸時代から「報條」のルビとして使われており、大正時代に初めて登場したものではありません。

   時代は変わって、宣伝媒体は「引き札」「瓦版」から「新聞」→「ラジオ」→「テレビ」へ変遷しましたが、少数の発信者と不特定多数 の受信者という構図は変わっていません。が、近年流行りの「インターネット」になるとすべての人が発信者であり同時に受信者であると、 情報の流れそのものが変化をしてきました。とはいえ受信者(宣伝の)が不特定であることに変わりないのですが、最近ではビッグデータを 活用したターゲッティング広告(狙い撃ち)が現れてきました。

 自分の興味を持っている物品の広告がインターネット上に最近よく見かけるようになったと思われませんか? 過去のグーグル検索や アマゾン購入等のデータが蓄積され活用され出したのです。すこし不気味ですね。

こういった状況を反映してインターネットの広告が激増し昨年末で、テレビの広告量(金額)とほぼ並んだと言われています。

 山東京伝や平賀源内の引き札が懐かしく思えてくるのは、私だけなのでしようか?

 
  参考文献

  *増田太次郎著「江戸から明治・大正へ引き札、絵びら、錦絵広告」
  

 
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