江戸の蕎麦物語⑤

夏目漱石は本当にそば好きだったのか?

   明治時代の日本を代表する文豪といえば、森鴎外と並んで夏目漱石の名を頭に浮かべる方が多いのではないかと思うのですが、その 漱石が大の蕎麦好きだったことを皆さんご存知でしょうか。

 漱石は『坊ちゃん』の中で「おれは蕎麦が大好きである。東京へ居った時でも蕎麦屋の前を通って薬味の香ひをかぐと、どうしても暖簾がくゞりたくなる。(中略)其晩は久し振に蕎麦を食ったので、旨かったから天麩羅を四杯平げた」とあり、『三四郎』では「追分の通りへ出て、角の蕎麦屋へはいった。三四郎が蕎麦屋で酒を飲むことを覚えたのはこの時である」といずれも主人公に蕎麦を食べさせています。その外、
『二百十日』『虞美人草』『道草』等にもそばが出てきます。これほど多くの作品にそばを登場させた作家は池波正太郎の外に私は知りません。

 小説に登場するだけでなく、留学先のロンドンから帰朝を前に(明治三十五年)奥さんの鏡子さんにあてた手紙にも「当地には桜といふも のなく春になつても物足らぬ心地に候(中略)日本に帰りての第一の楽みは蕎麦を食ひ日本米を食ひ日本服をきて日のあたる椽側に寐ころ んで庭でも見る是が願に候」と、松江藩主・不昧公*ばりの心境を述べています。

 高浜虚子の『漱石氏と私』には、洋行帰りの漱石が「船が長崎であったか神戸であったかに着いた時に、蕎麦を何杯か食った上にまた 鰻飯を食ったので腹を下したそうです、というようなことを細君が私に話したことを記憶している」と書かれていることもあって、世間一般では漱 石は間違いなく「そば好きだった」とされているのですが、実のところこれには異論もあるのです。それも身内から・・・。

 漱石の次男・伸六が著書『父・漱石とその周辺』の中で「父を蕎麦好きと考えるのは、少々早計に過ぎるので、恐らく、父が、心から蕎 麦を食いたいなどと思ったことは、生涯を通じて、そう幾度もあったとは思えない」と疑問を呈したことに端を発します。そば好きではなかった  けれども風俗描写のために小道具としてそばを使ったということでしょうか。

 ところで、漱石が亡くなったのは伸六が小学校二年生(七歳)の時なので、父の嗜好をどれほど知っていたかは疑問ですね。漱石の松 山中学教員時代の僚友・弘中又一氏(坊ちゃんのモデル)も「私が食べたのは「しっぽくうどん四杯だったが、小説では漱石の好きな『天 ぷら蕎麦』に変わっていた」と、漱石のそば好きを認めています。やはり漱石は「そば好きだった」と私は思うのですが。

  ところが、長編小説の処女作『吾輩は猫である』に次のような場面があります。
 「初心者に限って、無暗にツユを着けて、さうして口の内でくちゃくちゃ遣っていますね。あれじゃ蕎麦の味はないですよ・・・此永い奴へツユを 三分一つけて一口に飲んで仕舞ふんだね。噛んじゃいけない。噛んじゃ蕎麦の味がなくなる。つるつると咽喉を滑り込む所がねうちだよ」「笊 は大抵三口半か四口で食ふんですね」と長々と講釈させた後、迷亭先生そばを食べ始めるが・・・「茶碗の中には元からツユが八分目這  入はいっているから、蕎麦の四半分浸つからない先に茶碗はツユで一杯になってしまった。迷亭の箸は茶碗の五寸の上に至ってぴたりと留 まったきりしばらく動かない。迷亭もここに至って少し躊躇の体であったが、たちまち脱兎の勢を以て、口を箸の方へ持って行ったなと思う間 まもなく、つるつるちゅうと音がして咽喉笛が一二度上下へ無理に動いたら箸の先の蕎麦は消えてなくなっておった。見ると迷亭君の両眼か ら涙のようなものが一二滴眼尻から頬へ流れ出した。山葵が利きいたものか、飲み込むのに骨が折れたものかこれはいまだに判然しない」と 皮肉たっぷりな筆致で迷亭先生を描いています。

 そば好きな漱石でしたが、そば通を自称する人間やいわゆる通ぶった食べ方には少々違和感があったようです。江戸っ子・漱石の皮肉 精神炸裂です。

 

    *不昧公 出雲松江藩の第七代藩主・松平治郷(不昧・1751~1818)。蕎麦・茶をこよなく愛した風流人でした。

     「茶をのみて道具求めて蕎麦を食い庭作りて月花見ん、その他大望なし 大笑 大笑」 不昧