江戸っ子の蕎麦物語⑥  

「蕎麦屋の只今」と「紺屋の明後日」  蕎麦屋のかつぎ(出前)

 一昔前、「蕎麦屋の出前」といえば「紺屋明後日」と並んでいい加減な言い訳け」代名詞でした 出前の催促をすると、「いま出るところです」が言い訳の決まり文句だったためでしょう。でも、ここでお話ししたいのは、出前という仕事は、そんないい加減なものでは決してなく、技能も体力も必要とする、粋で(いな)()な誇り高い専門職だったということです。

出前の歴史は古く、江戸・亭保*(1716~1735)年間に遡るといいますが、江戸末期頃になると蕎麦屋の仕事も、そ  ばを打つ「板前」を筆頭に、茹でて盛り付ける「釜前」、種物を作る「仲番」、お客さま対応をする「花番」等と並んで「外番・かつぎ」と呼ばれる独立した職種でした。

「外番」は注文先へそばを届けるのが役割ですが、そばは生もの、時間が経つと伸びてしまうのでスピードが命でした 。また花街や商家等への出前が主だったので一度に多量の蕎麦を届けなければならないことから、足が速く体力があることはもちろん、熟練した技術を持った若者が必要だったのです。

歌舞伎十八番の「助六」に登場する「福山のかつぎ」は、豆しぼりの手ぬぐいに向こう鉢巻、赤い腹がけに印半纒、素足に草履ぱきで粋とを絵に描いたような出立ちで長々と啖呵を切る、「助六」の見せ場のひとつになっています。天秤棒の先に出前箱をぶら下げ、江戸の町を疾駆していた姿が目に浮かびます。専門職としてのプライドも高く、お届けの際は決して同業者(蕎麦屋)の店の前を通らないという仲間内のマナーもあったと伝え聞きます。

ついでながら、「粋」は年齢・性別には関係ありませんが、「鯔背」は江戸の魚河岸にいるような、威勢がよくて、腕っ節も強い、その上金払いもいいという若者(一心太助のような)に使われる言葉で、魚河岸のお兄さん達が「(いな)()銀杏」という髪型を結っていたことに由来するそうです。

 また出前は、店売り専門店(個人客)と出前専門のお店(法人客)といった具合にお客を上手に分けて、競争を避け る有力な手段でもあったようです。今でいう「差別化マーケッティング」をやっていたわけですね。
ところが、時が流れ世の中が変化するにつれ、花街や商家の月末棚卸時に奉公人達へ蕎麦振る舞いする習慣等も次第に廃れ、交通事情も一変したため、片手に山のような「せいろ」を乗せて運ぶ外番の仕事も難しくなり、昭和の経済高度成長と共に、古い時代の風物詩は姿を消すことになったのです。当然と言えば当然のことなのですが・・・。

 戦後東京の蕎麦屋さんが「出前運搬機」を発明しましたが普及は難しかったようです。代わりに、最近の出前の代表選手は「ピザ」デリバリーのようです。こちらの方は昔ながらの「蕎麦屋の出前」とは違って時間内配達厳守が命で、なかには約束時間に遅れると料金を無料にするお店もあると聞きます。ネットショッピングも新種の出前と言えるのかもしれません。Other timesother manners.・・・ですね。

  
 *「仕出しには、即座麦めしニ八そば、みその賃づき茶のほうじ売り」(「享保世説」・享保十三年年・1727)。

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