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江戸っ子の蕎麦物語⑪ 江戸腹とそばの盛り 江戸っ子の粋 「江戸腹」という言葉をご存知でしょうか? 江戸っ子は概して小食だったといいます。大飯食いを田舎者と蔑む風潮があり、間食で補うのが一般的だったようです。 これは、江戸が急膨張を続ける町であり、火事と喧嘩は江戸の華といわれるほど大火が頻発したということもあって、絶えず彼方此方で建設が盛んでした。当然、大工・鳶・左官などの職人が多く住んでいて、彼らは高所で仕事をすることが多く身軽さが必須条件でした。そのために食事を分けて食べるのが習慣になっていたのだといいます。 小食の習慣が、いつしか江戸っ子の「粋」(美意識)と結びついて「江戸腹」といわれるまでになったということのようです。 江戸そばの格言に「うどん三本、そば六本」とか「そばは三つ箸半」といったものがあります。前者は一箸でつまむ適量を指し、後者は一皿を何箸で食べるのが粋なのかを表しています。単純に掛け算してみると、蕎麦の盛りは「二十一本」(6×3.5)ということになります。多少誇張があるにしても江戸っ子の理想とするそばの盛りはかなり少なかったことが窺われます。 関西人が東京の盛りの少ない蕎麦屋に偶然入って吃驚することがありますが、東京生まれの作家・椎名誠も随筆「モリソバの伝統的欺瞞を粉砕する」(日本の名随筆「蕎麦」・渡辺文雄編)の中で、そばの盛りの少ないのに・・・ 「パラパラとかろうじてセイロの表面がかくれる程度にソバが薄く乗せられていて、ちょっと箸ですみっこのほうからソバをからめとると、あっという間にその半分ほどがなくなってしまう、なんていうのを時々見かける。『ふざけるな!』と言いたいのである」と怒りを爆発させています。お怒りめさるな、江戸っ子にとって「蕎麦」はおやつだったんですよ、椎名さん!。 脱線ついでに、江戸っ子の蕎麦食への強いこだわりを少し紹介してみましょう。 まず一番は、古典落語の「そば清」や「時そば」等の枕話に出て来る「死ぬまでに蕎麦を汁にたっぷり漬けて食べたかった」の台詞です。 江戸っ子のやせ我慢もここまでくると笑い話になりますね。箸に挟んだ蕎麦の先を少しだけ汁に漬けて勢いよく啜り上げる。あまりぐちゃぐちゃ噛まずに飲み込み喉越しを楽しむというのです。 もう一つは「蕎麦屋に長居は野暮」とばかりに江戸っ子はさっと蕎麦を手繰ってさっと店を出るのを競ったといいます。野暮は粋の反意語であり江戸っ子が最も忌み嫌ったものです。つい長居をしてしまう私なんぞはさしずめ失格者の代表みたいなものです。 江戸っ子の気質を一言でいうのは難しいのですが、「金離れが良くて、細かいことにはこだわらない、意地っ張りで喧嘩っ早い、洒落が好きで議論が駄目、人情家で涙もろい単純な正義漢」といったところでしょうか。その気質を形にしたのが蕎麦の食べ方だ、といわれると何となく納得してしまうのです。 「江戸っ子」という言葉の初見は江戸中期・明和八年(1771)の「万句合」*に寄せられた川柳「江戸ッ子のわらんじはくらんがしさ」(江戸っ子の草鞋履く騒々しさ)という一句だそうです。野田・銚子の醤油が誕生し握りずし・天ぷら・鰻のかば焼きなどが現れて、上方に対抗する食文化が江戸に誕生する、ちょうどその頃のことです。 話を元に戻しましょう。そばは江戸では間食・趣味食化の道をたどることになりましたが、全国にちらばる「郷土そば」は、一部は祝言・集会・祭り等のハレの食べ物として今日に至っているものの、全体と 「郷土蕎麦」には大食いを競う岩手の「わんこそば」があり、山形の「板そば」や新潟の「へぎ蕎麦」のように満腹間違いなしの盛りのそばがあります。
大盛りでなくてよかった、とつくづく思ったものでした。 *万句合(まんくあわせ) 選者が課題の「前句」を出し、その「付句」を募集。勝句を印刷して発刊。宝暦(1751~1764)から寛政(1789~1801)頃まで行われ、「誹風柳多留」の底本ともなった。 |
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