上方の蕎麦物語①

      蕎麦屋発祥の地は大坂?   「砂場」は大阪生まれ・・


 「蕎麦といえば江戸、うどんといえば上方」が世間の通り相場です。 
 ところで、「大坂こそ蕎麦屋発祥の地だ」とする記念碑が大阪のど真ん中近くに建っているのをご存知ですか。大阪は四ツ橋の交 差点から5分ほど西に向かって歩くと、右手に新町南公園が見えてきます。その片隅に「ここに砂場ありき」と書かれた石碑が人目を避けるようにひっそりと佇んでいます。実はその石碑の裏に「本邦最初の麺類店発祥の地」と記されているのです。子供の遊ぶ砂場の跡に記念碑? どうも奇異な感じがします。そうなのです、ここは遊び場などではなく、何を隠そう東京の老舗蕎麦屋の代表格「砂場」創業の跡地だというのです。
 少し経緯をお話しましょう。

 豊臣秀吉が大坂城の築城を始めたのは天正11年(1583)、天下統一を達成し、その権威を天下に示すため、浄土真宗の本山・石山本願寺の跡地に、信長の安土城をモデルにして、それを超える難攻不落の名城を築こうとしたのです。完成するのまでに15年の歳月がかかりました。
 築城が始まると材料置き場が大坂の町のあちこちに作られましたが、現在の新町南公園辺りは砂置き場になったようです。砂置き場には人夫等多くの人が集まるようになり、その人たちを目当てに2軒の麺業店「いずみや」と「津の国屋」が開業しました。時が経つうちにいつしか両店とも場所に因んで「砂場」と呼ばれるようになったといいます。
 「大阪のそば店誕生400年を祝う会」が記念碑を立てたのが昭和60年(19853月、その根拠は、嘉永2年(1849)に刊行された「二千年袖鑑」の「砂場」の絵図の「創業は265年前」という記述にあるのです。二千年袖鑑刊行から265年前というと1584年のこと、ちょうど大坂城築城の始まった翌年にあたります。
 「ソハキリ」(そば切り)という言葉が最初に出て来るのは、木曽路・須原宿の定勝寺(臨済宗妙心寺派)の古文書*で、天正2
1574)のことですから、大坂城築城(1583)と10年前後の開きしかありません。「祝う会」の方々が「本邦最初の麺類店」だと主張す  るのにもそれなりの理由があるのです。
     ところが、蕎麦史研究家で著名な新島繁氏は、「いずみや」の初見は『絵本御伽品鏡』
(享保15年・1730)であるとし、天正12年開業説に強い疑問を呈しています。また寛永六年(1629)に新町遊郭の開設後の開業だとする有力な説もあって、二千年袖鑑の記述だけで、いずみやの創業を1584年と断定するのには少々躊躇するところです。

 「本邦最初の麺業店」はともかくも、東京老舗御三家のひとつである砂場の出自が大坂だったことの方は間違いないようです。虎ノ門にある創業明治5年の砂場は、現在も自ら「大阪屋砂場」の看板(写真)を揚げていますし、それだけではなく、寛永5年(1751)に出版された江戸時代の唯一の蕎麦専門書「蕎麦全書下巻」(日新舎友蕎子著)に「薬研堀・大和屋大坂砂場」の文字がみられ、事実を裏付けています。
 ところが、大坂から江戸へいかなる経緯でいつ頃移転したのか、残念ながら一切不明なのです。江戸中期頃には既に江戸へ移転していたことは分かるのですが、他は謎に包まれていて詳細は分かりません。今後の記録発見に期待するのみです。

 

   *古文書 木曽路・大桑村の定勝寺「番匠作事日記」に仏殿修理を行った際の献上物の中に「振舞 ソハキリ 金永」(金永さん        がそば切りを振る舞った)の記載があり、「そば切り」の初見とされている。

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