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上方の蕎麦物語② 京都禅林は蕎麦切り発祥の地か?
蕎麦切りの発祥の地については諸説あって今もって定説はありません。いずれも伝承の域を出ないものが多いのですがご紹介してみましょ 第二は「甲州天目山説」です。尾張藩士・国学者の天野信景(1663~1733)の随筆集「塩尻」(元禄十年・1697)に「蕎麦切りは甲州に始まる。初め天目山に参詣多かりし時、所民参詣の諸人に食を売るに米麦少なりし故、そばをねり旅籠とせしに、其の後うどむを学びて今のそばとはなりし、と信濃人のかたりし」と伝聞を記述しています。これを根拠に、信州本山宿・甲州天目山栖雲寺には夫々「蕎麦切発祥地」の碑が建てられています。 第三は「博多承天寺説」です。臨済宗東福寺派の僧・円爾(聖一国師・1202~1280)は渡宋して多くの文化や技術をわが国に伝えたのですが、製麺技 現在のところ「そば切り」の初見は木曽・大桑村の定勝寺の古文書にある「振舞ソハキリ 金永」(番匠作事日記)(天正二年・1574)だとされているので、伊藤説が正しいとすれば、「そば切り」のデビューは、更に百三十年ほど早まることになります。 長野県の郷土史家であり、番匠作事日記初見の発見者でもある関保男氏*1は「初期のそば切りの史料は上方の方が多い。信州に限ってみても、(中略)初めは木曽方面に見え、中山道沿いに次第に奥の方へ普及しているように思われる。また麺棒やのし板・包丁等の用具の普及を考えると、やはりそば切りは上方から街道沿いに普及し、寺院・大名・本陣から次第に庶民のあいだに広がってきた可能性が高いと考える」と述べていることも参考までにご紹介しておきましょう。 以上述べた史実を繋ぎ合わせると、製麺技術の伝播経路(「中国・宋→博多・承天寺*2・京都禅林(中山道を東へ)→木曽・定勝寺→江戸」)が見えてくるように思われます。いずれにせよ臨済宗寺院が蕎麦の伝播に大きな役割を果たしたことは間違いないようです。だとすると、京都禅林そば切り発祥説も断定は避けなければなりませんが説得力を増すようにも思えるのです。 *1関保男 「長野・特集(信濃そば)」(長野郷土史研究会)平成五年一月刊 この特集に掲載した論文「信州そば史雑感」の中で、「番匠作事日記」のソハキリの初見を発表した。 *2承天寺 「そばがき」を振舞ったとする伝承は残っていますが、「そば切り」の記録・伝承は見当たりません。
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