上方の蕎麦物語②

京都禅林は蕎麦切り発祥の地か?   

 

蕎麦切りの発祥の地については諸説あって今もって定説はありません。いずれも伝承の域を出ないものが多いのですがご紹介してみましょ
う。
第一は「信州本山説」です。正保二年(1645)刊の俳書「毛吹草」に「そば切りは信濃の国の名物、当国より始まる」とあるのが最も古いのですが、芭蕉門下十哲の一人・森川許六(1656~1715)も「本朝文選」(宝永三年・1706)の中で、弟子・雲鈴の言として「そば切りといえば、もと信濃国本山宿より出て、あまねく国々にもてはやされける」と紹介しています。

 第二は「甲州天目山説」です。尾張藩士・国学者の天野信景(1663~1733)の随筆集「塩尻」(元禄十年・1697)に「蕎麦切りは甲州に始まる。初め天目山に参詣多かりし時、所民参詣の諸人に食を売るに米麦少なりし故、そばをねり旅籠とせしに、其の後うどむを学びて今のそばとはなりし、と信濃人のかたりし」と伝聞を記述しています。これを根拠に、信州本山宿・甲州天目山栖雲寺には夫々「蕎麦切発祥地」の碑が建てられています。

 第三は「博多承天寺(じょうてんじ)説」です。臨済宗東福寺派の僧・(えん)()(聖一国師・1202~1280)は渡宋して多くの文化や技術をわが国に伝えたのですが、製麺技 術と「水磨様の図」(製粉工場設計図・京都東福寺保管)も持ち帰ったといわれています。帰国した円爾は貿易商・謝国明の援助を受け臨済宗承天寺を建立しました。この縁で、承天寺境内には「饂飩蕎麦発祥之地」の石碑が建っています。

   こういった事情を背景に、蕎麦研究家・伊藤汎氏は「つるつる物語」(1987・築地書館)で、新たに「京都禅林説」を唱えています。その論拠は相国寺鹿(ろく)(おん)院にある(いん)(りょう)軒庵主の日記「蔭涼軒日録」の中にありました。「松茸折一合、蕎麦折一合、賜林光院」(永享十年(1438)十月十二日)の記述がそれです。蕎麦に関連した記述のある他の場所では「蕎麦粉・蕎麦の実・蕎麦がき・蕎麦餅」のようにすべて具体的に書かれているにもかかわらず、ここでは「蕎麦折」((おり)に入った蕎麦)と異なった表現をとっていることから、伊藤氏はこれを「そば切り」(当時は「そば切り」という言葉はなかった)だったと推論するのです。

 現在のところ「そば切り」の初見は木曽・大桑村の定勝寺の古文書にある「振舞ソハキリ 金永」(番匠作事日記)(天正二年・1574)だとされているので、伊藤説が正しいとすれば、「そば切り」のデビューは、更に百三十年ほど早まることになります。

長野県の郷土史家であり、番匠作事日記初見の発見者でもある関保男氏*1は「初期のそば切りの史料は上方の方が多い。信州に限ってみても、(中略)初めは木曽方面に見え、中山道沿いに次第に奥の方へ普及しているように思われる。また麺棒やのし板・包丁等の用具の普及を考えると、やはりそば切りは上方から街道沿いに普及し、寺院・大名・本陣から次第に庶民のあいだに広がってきた可能性が高いと考える」と述べていることも参考までにご紹介しておきましょう。

 以上述べた史実を繋ぎ合わせると、製麺技術の伝播経路(「中国・宋→博多・承天寺*2・京都禅林(中山道を東へ)→木曽・定勝寺→江戸」)が見えてくるように思われます。いずれにせよ臨済宗寺院が蕎麦の伝播に大きな役割を果たしたことは間違いないようです。だとすると、京都禅林そば切り発祥説も断定は避けなければなりませんが説得力を増すようにも思えるのです。

 

*1関保男 「長野・特集(信濃そば)」(長野郷土史研究会)平成五年一月刊

      この特集に掲載した論文「信州そば史雑感」の中で、「番匠作事日記」のソハキリの初見を発表した。

*2承天寺 「そばがき」を振舞ったとする伝承は残っていますが、「そば切り」の記録・伝承は見当たりません。

      


  

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