上方の蕎麦物語③

        京都の和菓子と蕎麦切り

 

 京都盆地の下に琵琶湖に匹敵する巨大な水盆があるのをご存知でしようか?

 京都は東西北の三方を山に囲まれた盆地で、周囲の山から流れ出た水は平地で地下に染み込み、長い年月をかけて濾過され上質の水となり地下水盆に貯められたのです。その大きさは東西12㎞×南北33㎞、水量211億トンに及び、琵琶湖の水量の約八割になるといいます(元関西大学学長・楠見晴重著「古都に眠る千年の地下水脈」)。殆どが軟水で柔らかくまろやかで繊細な水質なのです。

この豊かな水源*が今日まで京都の暮らしを支え独自の文化を育んで来たことは皆さんよくご承知の通りです。

茶道・生花・染物(京友禅)等の伝統文化は言うに及ばず、伏見の酒造りを先頭に、豆腐・湯葉・麩・京野菜に至るまで広くこの水の恩恵に浴しています。名声高い京料理の出汁はもちろん、有名老舗が競う和菓子もその例外ではありませんでした。

 桓武天皇が都を京都に定め平安時代(794~1868)が始まり、やがて天皇を中心に貴族たちや寺院が作り出した王朝文化が大きく花開くことになりました。春夏秋冬、様々な会合や行事が京の各地で持たれるようになったのは当然の結果でした。そんな時重宝されたのが和菓子です。多くの和菓子舗が京都に誕生し繁盛を極めます。やがて御所御用達・寺院御用達の栄誉が与えられるようになります。

いうまでもなく菓子舗は粉ものを扱うので練り物は得意中の得意でした。一方、宋から持ち帰った製粉・製麺技術を使って寺社内では既に「そば切り」が作られていましたが、次第に寺では賄いきれなくなり、「練る・伸ばす・切る」技術を持っている菓子舗に製麺を注文するようになったのは、まだ専業蕎麦屋が未発達の時代だったので、自然の成り行きではなかったでしょうか。

 応仁の乱(1467~1478)が始まる二年前の寛正六年(1465)に創業した京都一の老舗蕎麦屋の尾張屋(写真)さんが、「そば切りと菓子の兼業を始めたのは1700年前後頃のこと」(第15代店主・稲岡伝左衛門氏談)といいます。京都にはこのほかに「晦庵河道屋」等、兼業する老舗が今なお繁盛中です。

 「上方の蕎麦物語①②③」を通して読んで頂くと、円爾をはじめとする禅僧たちによって宋から製麺技術が持ち帰られ、やがて臨済宗を中心とする禅寺で「そば打ち」が行われるようになり、中山道を西から東へ寺院伝いに伝播し、やがて寺院から庶民へ「そば切り」が普及して行く室町時代~江戸時代の姿がぼんやりとではありますが透けて見えてくるように思われるのは、前回「京都禅林そば切り発祥説」の項で述べた通りです。

 そう考えると、第一回「大坂は蕎麦屋発祥の地か」で述べました、津の国屋・和泉屋が日本最初の蕎麦屋であったとする新町南公園にある石碑にかかれた経緯を、一概に虚説として退けることの可否も問われる時がやがてやって来るのではないかと思われます。歴史を紐解くカギはミクロ(文献等の史実)の発見が必要ですが、その背景にある時代の流れを捉えるマクロな視点(仮説)が重要なことは今更申し上げるまでもないことでしょう。

 

京都地下水盆 水盆の出口は天王山と石清水八幡宮のある男山の幅約1kmに括れた辺りでせき止められていて天然の地下ダムができているわけです。そのため、僅かな量しか地下水が流出しないので巨大な地下盆水になったわけです。しかし豊富な水量を誇る京都盆水も昭和三十年代に入り、宅地が広がり、道路の舗装や地下工事が進むにつれ、雨水の地下浸透が激減したため水量が少なくなり、かつての浅井戸自噴も無くなり、現在では深井戸から汲み上げるようになったといいます。

 
  

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