上方の蕎麦物語④

蕎麦祖神 第四十四代 女帝元正天皇  天皇と蕎麦の物語


 我が国の女性天皇(男系)はこれまでに八人十代を数えることは既にご承知のことと思います。ただ元正天皇は母が元明天皇であり、唯一の母から娘への譲位であり、かつ結婚経験のない独身女性天皇でした。美人の誉れ高く続日本紀には「天の縦せる寛仁、沈静婉レンにして、華夏戴せ佇い」(慈悲深く落ち着いた人柄であり艶やかで美しい)とそのお人柄が記されています。  
 また「民に失業無からしめよ、役人に汚行なからしめよ」と善政を敷いたといわれています。その元正天皇が「蕎麦祖神」として今日に至るまで多くの麺業を営む人たちから崇め感謝されていると聞いて、これは捨て置けないと「蕎麦のトリビア」のテーマにさせて頂きました。
 
 奈良時代前期、養老六年(722)七月のこと、この夏は雨が少なく稲作が心配されたのでしょう、心優しい元正天皇は全国に詔勅を出されたのです。「今夏無雨苗稼不登、宣令天下勧課百姓、種樹晩禾蕎麦及大小麦、蔵置儲積以備年慌」(続日本(しょくにほん)()*1・巻九・七九七年)飢饉に備えて救荒作物として蕎麦や大麦・小麦を作るよう百姓に勧めるという趣旨です。誠に適切な詔勅ですね。蕎麦は播種から七十五日といわれるほど短期収穫のできる穀物です。稲の実り具合を見てから播種しても間に合うのです。
 実はこの詔勅はソバに関するわが国の歴史上最初の記録なので、そば好きには忘れることができない出来事なのです。蕎麦を救荒食として食べると言っても、当時は現在我々が食している「そば切り」が誕生する千年ばかり前のことです、恐らく「そば米」*2として食べていたのでしょう。まだ石臼がない時代だったので粉食も難しかったと思われます。
 この詔勅によって全国にソバの栽培が広がり、多くの農民が飢饉を乗り越えて来ること可能になった画期的な出来事でした。
   余談になりますが、蕎麦の花言葉は「懐かしい思い出」「喜びと悲しみ」と「あなたを救う」です。あの小さくて可憐な白い花から前二つの言葉は似つかわしくも思えるのですが、「あなたを救う」はどうもピッタリ来ないとかねてから思っていました。今このエッセイを書いていて、はたと気が付きました。迂闊でした。あの可愛い白い小さな花が救荒食として「あなたを救う」のです。これで長年の疑問が氷解しました。

 また、この詔勅のお陰で、雑穀の一つに過ぎなかったソバに初めて陽が当たり、今日の「そば文化」隆盛の出発点となったともいえます。そういう経緯から麺業を生業(なりわい)とする方々から「蕎麦祖神」として今日なお崇め感謝され、元正天皇崩御の日、五月二十六日には毎年京阪奈地方の業者を中心に奈保山御陵(近鉄奈良駅からバスに乗って奈保山御陵で下車すぐ)前で蕎麦祖神感謝祭が行われていると聞きます。

 元正天皇によって作られた「天皇と蕎麦」のご縁のせいか、その後も天皇と蕎麦をめぐるエピソードが沢山残されています。せっかくの機会ですから、明治・大正・昭和の直近の三代天皇に関するお話をご紹介しましょう。
 先ず明治天皇についてですが、まだ東宮であった大正天皇が滋賀県の彦根に陸軍演習に参加された折(明治四十五年)に「伊吹そば」(老舗・鶴喜そば)の美味なことに痛く感動されわざわざ明治天皇へのお土産にされたということです。明治・大正両天皇とも大変な「そば好き」であったことを物語るエピソードではないでしょうか。
 大正天皇は奔放なご性格だったことから、行幸中に突然町の蕎麦屋に飛び込まれたこともあったと伝えられていますし、出雲ではご所望によって当地の名店・羽根屋に命じて蕎麦を作らせたところ、その美味なことに感動され、羽根屋に「献上そば」を店の名前に付することをお許しになったといいます。現在も羽根屋さんは「献上そば・羽根屋」を看板に営業をされています。
  戦後の昭和天皇になるとそばをめぐるお話は一段と増加します。
 昭和二十二年に第二回国民体育大会秋期大会にご出席の際、福井・武生を訪れられた天皇は市内の老舗蕎麦屋「うるしや」(一時廃業・昨年四月再開業)のそばを食され、その後度々「あの越前の蕎麦は・・・」と思い出話をされたといいます。それを聞いた地元では以降「越前そば」と称するようになったと伝えられています。
  また昭和二十九年、巡幸先の北海道・釧路では老舗・竹老園東屋をお訪ねになり、「美味しい美味しい」とお代わりを二回もされたそうです。
 昭和天皇最後の料理番を務めた谷部金次郎氏は「毎月三十日には晦日そばをお出しするのが慣例だったが。いつもお代わりをされた。天皇は自ら献立に口を出されることは慎んでおられたので、今にして考えるとそのお気持ちを忖度してもっとお蕎麦をお出しすればよかった(筆者要約)」と著書「昭和天皇の料理番」の中で思い出を語っています。改めて昭和天皇のおそば好きが相当なものであったことが分かると同時に、料理番に対するお気遣いが・・・何とも言えない味わいのある話ですね。これが我が国の帝王学なのでしょうか。

  *1続日本紀 『続日本紀』は、平安時代初期に編纂された勅撰史書です。 『日本書紀』に続く六国史の第二にあたる。 文武天皇元年
        (697)から桓武天皇の延暦十年(791)まで九十五年年間の歴史書。全四十巻。

  *2そば米  石臼などによる製粉技術未発達の時代には、ソバの実をゆでてそば殻を取り除き乾燥させ、お米と同じように炊き上げたり、
        雑炊のようなものにして食べたものと考えられています。現在でも長野県・徳島県などでは一般食として食べられています。


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