上方の蕎麦物語⑤

       源平の戦い 平敦盛と蕎麦  八百三十年余を隔てて
 
 
 祇園精舎の鐘の音 諸行無常の響きあり」・・ご存知、平家物語冒頭の一節です。栄耀栄華を極めた平家の没落は「盛者必衰」の言葉と共にその後長く語り継がれることになりました。

 寿永四年(1185)、「平家にあらずんば人にあらず」と君臨したさしもの平家も檀浦の戦いで源氏に敗れ、ついに歴史からその姿を消すことになります。平清盛の弟・経盛の末子である平敦盛も乗船寸前に源氏の武将・熊谷直実に戦いを挑まれ、一騎打ちの結果一の谷で討ち死にするのですが、笛の名手であり十六(七)歳という初陣の若武者であったことから広く世人の憐憫を集め、鎌倉時代後期になって北条貞時が平家一門を供養するために五輪の塔「敦盛塚」を建立し鎮魂したと伝えられています。毎年三月には塚の前で「敦盛祭」*1が行われるのが恒例になっています。
 ところで、実はそのすぐ近くに「敦盛そば」という名の蕎麦屋があることはあまり知られていません。いつ頃創業したのか定かではありませんが、江戸時代の蕎麦風俗を伝える唯一の専門書・蕎麦全書(寛延四年・1751年刊)には「舞子浜敦盛そば」と書かれているところを見ると、江戸中期には既に存在していたようです。現存の蕎麦屋「敦盛そば」さんがその直系であるとすれば三百年近い歴史を刻んだ蕎麦屋だということになります。 また蜀山人こと太田南畝*2の「革令紀行」(文化元年・1804)にも「呼び止めて 年も二八のあつもりを 打ち出したる 熊谷のそば」・・・と前述の「敦盛と直実の一騎打ち」にかけた狂歌が詠われているところからも、「熱盛そば」の存在は間違いのない事実のようです。  
 もうお気づきの通り、「敦盛」を「熱盛り」*3にもじったのが「敦盛そば」なのです。江戸時代初期の蕎麦はソバ粉の質も悪くそば打ち技術も拙劣で、蕎麦がぶつぶつに切れてしまうものが多かったために、茹でるのではなくせいろに入れて蒸すのが一般的だったといいます。現在も蕎麦をせいろに盛る店が多いのは実はその名残なのです。
 興味深いのは、「熱い盛り蕎麦」(蒸し蕎麦)を品書きに入れているお店は圧倒的に関西以西に多いということです。京都の「竹邑(ちくゆう)(あん)太郎敦盛」、大阪堺の「ちく()」、大阪北の「瓢亭」、山口市の「ふじたや」等は現在も繁盛を続ける代表的なお蕎麦屋さんといえるでしょう。
 何故、関東には無く上方以西に「熱盛そば」が多いのか疑問が湧きます。 私には前述の須磨公園の「敦盛塚」が大きな影響を与えた結果だと思っています。
 歴史学者の田辺真人氏*4は「西国街道の旅人や大名行列もここにあった茶屋で休息をとり名物敦
盛そばを喰べた」と書いています。敦盛塚を訪れ熱盛そばを食べた旅人の心の中に、十六(十七)歳にして非業の死を遂げた平敦盛への憐憫と「熱盛そば」が記憶の底で結びあって残ったためではないでしょうか。

 他にも熱い盛りそばは存在すようです。例えば、山口県・大分県に「瓦そば」と呼ばれる屋根瓦の上に盛り付けた「熱盛り蕎麦」がありますが、これは「敦盛そば」とは源流を異にします。瓦そばの方は西南戦争(明治十年)の際に熊本城を取り囲んだ薩摩軍の兵士たちが野草や肉を瓦に乗せて焼いたといわれている、元々は野戦食でした。昭和三十年代半ば頃に川棚温泉の旅館がこれを料理としてお客に出すようになったのが始まりだといいます。
さて本題に戻って、現存する須磨の蕎麦屋「敦盛そば」さんのことですが、二年前にご主人・天野本常氏が他界され、その後は休業を続けていましたが、今年になって故人の友人が後を継ぐことになったと聞きます。コロナ騒ぎが収まったら、ぜひ一度訪れて源平の昔を偲んでみたいと思っているのですが・・・。

 *1敦盛祭 大本山須磨寺が主宰する祭りです。今年は三月七日に第五百三十五回が須磨公園五輪の塔・熱盛塚前で行われました。
 *2太田南畝(蜀山人)著「革令紀行」 幕府御家人・狂歌師 1804年長崎奉行所支配勘定方を命ぜられ大坂から山陽道を西へ向かう                  途中、舞子浜で詠った狂歌です。
 *3「熱盛りそば」 茹でた蕎麦をいちど水で締めて再び熱湯に通して温めてせいろに盛る、いわゆる「熱いもり蕎麦」です。
 *4田辺真人 園田学園女子大学名誉教授・著書「須磨の歴史散歩」須磨区役所・平成九年刊

 



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