上方の蕎麦物語④

     出石蕎麦の誕生  信州上田から但馬出石へ

 
 全国各地にある蕎麦街道や門前蕎麦屋のように多数の蕎麦屋が集まっているいわゆる「そば処」といったものが関西にはなかなか見当たりません。唯一の例外が兵庫県北部の城崎温泉に近い豊岡市出石町です。人口僅かに一万人を超える程度の小さな城下町ですが、現在も約五十軒のそば屋が軒を連ねています。ここが関西随一の蕎麦屋が集積する場所なのです。

 「出石そば」の歴史は江戸時代に遡ります。

 宝永三年(1706)に但馬国出石藩(五万石)の藩主松平氏と信州上田藩(六万石)の藩主千石正明氏が御国替えとなった折、千石氏がそば処・信州上田からそば職人を帯同したことに始まると伝えられています。そば切りがようやく庶民の間に普及し始めた江戸中期のことでした。 この御国替えによって、出石そばが誕生したことは間違いないようです。当時の日本は全国三百余藩(*1)が徳川幕府の下で夫々独自の統治をおこなっていて、藩をまたがる人の移動は制限され、各藩はあたかも独立した国家のように多様な政治・文化を競っていました。したがって、参勤交代・御国替え(移封・転封)は国内の文化移転に大きな役割を果たしていたといえます。

 御国替えによって「そば切り」の技術が移転した例をご紹介しましょう。
まず最初に挙げたいのは高遠藩主保科正之です。保科は二代将軍秀忠の庶子として生まれ、信州高遠藩に預けられ藩主となったのですが、後に三代将軍家光に認められ、出羽山形藩主(1636)→会津藩主(1648)と栄進を続け、ついに四代将軍家綱の後見役として江戸城入りを果たし、明暦の大火後の施政などで辣腕を振るった名君として知られています。現在も会津では「高遠そば」(高遠は長野県の地名)の名を冠した品書きが残っていることを特記しておきましょう。  
 また信州松本藩主だった松平政直は出雲松江藩(1638)へ転封され、日本三大そば処のひとつ「出雲そば」の基礎作りに貢献、第七代松平(はる)(さと)(不昧公・1751~1818)によって大きく発展したことは良く知られています。松代藩主の松平忠昌は越後高田藩(1618)→越前福井藩へ御国替えをしています。転封先の山形・会津・出雲・新潟・福井が出石も含めて、いずれもわが国を代表する「そば処」となっていることが何よりの証拠だといえます。
 さて、本題の出石蕎麦ですが、現在の原形がおおよそ整ったのは幕末頃のことだったといいます。屋台で出す時に持ち運びが便利な手塩(てしょう)(ざら)に蕎麦を盛って提供したことに始まったようです。その後、出石焼(*2)が復興すると小皿には出石焼が使われるようになりました。皿の染付は蕎麦屋さん夫々で異なっていて楽しめるのも、出石皿そばならではの特徴のひとつに数えても良いのではないでしょうか。また多彩な薬味(生鶏卵・とろろ・ねぎ・大根おろし・山葵)も他を寄せ付けない豊富さを誇っています。このようにして出石皿そばが独自の道を進み続け、現在のような形になったのは案外新しく、昭和三十年代になってからだと言われています。(写真は蕎麦屋「左京」の皿そば) 
 現在では年間七十万人を超える蕎麦ファンが訪れるようになりましたが、ここまで来るには蕎麦屋さんはもちろん、町あげての努力の結果であることは言うまでもないことです。
 「出石名物そば喰い大会」(毎年四月第三日曜日開催)は「桜まつり」と並行開催され、令和元年に第四十七回を数えるまでになりました。「かむな やすむな あじわうな」の掛け声で皿数と時間を競います。食べ終わって積み上げた皿が箸を立てた高さを超えると一人前の蕎麦通だとされるそうです。また平成二十年から始まった「出石皿そば 新そばまつり」(毎年十一月開催)は昨年で十二回を数えます。関西ただ一つの蕎麦屋集積地として異彩を放ち続ける姿は、関西人にとって確かに一見の価値がありそうです。

 ★出石そばの「食べ方おせっかい食べ方」指南・・・というのを目にしました。誠におせっかいですがご紹介しておきましょう。

      つゆをお猪口に注ぎつゆの旨みを味わう。

      まずそばとつゆだけで麺を味わう

      次に薬味として葱、わさびでさっぱりと頂く

      山芋、卵で違った美味しさを味わう

      最後は、そば湯で締めてごちそうさま

 *注1 全国三百余藩 実際には、幕末で三百藩近くあったといわれています。

 *注2 出石焼 日本では珍しい白磁の焼き物。江戸中期頃に白磁の鉱脈が 発見され伊万里焼の陶工を招聘して事業化に成功するが、     その後衰退してしまっていた。明治九年復興に着手し今日に至っている。


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