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郷土蕎麦の物語② 宮沢賢治も愛した「わんこそば」 ハイ、ジャンジャン、ハイ、ドンドン 日本三大そば処といえば、長野県の「戸隠そば」と島根県の「出雲そば」、そしてこれから紹介する岩手県の「わんこそば」だといいます。いつ誰が言い出したのか、理由も定かではありません。異論もあることでしょう。 さて主題の「わんこそば」ですが、椀子という小ぶりの円形の器に盛りつけされた(量は盛りそばの1/10~1/15)温かいそばで、食べ終わるとすかさず横についた給仕がかけ声とともに空いた椀に新しいそばを供し、お客が椀の蓋を閉めるまで続けるという独特の食べ方・サービスなので、一種のイベントとして全国に知れ渡っています。 昭和32年(1957)に花巻市の嘉司屋(現存)が町興しの一環として考案したものですが、昭和61年からは盛岡市でも「全日本わんこそば選手権」が開催されるようになり現在もなお盛況を続けています。15分間で632杯食べたのが最高記録(平成30年)だそうですから驚きです。岩手県を訪れる観光客も「わんこそば」を楽しみにしている方が多いと聞きます。 わんこそばの淵源を訪ねると、決して早食い・大食いの習慣に由来するわけではなく、元々は地主が秋の収穫を祝い、農夫たちを「そば」で労ったり、婚礼披露の宴で「そば」を振舞う習慣が昔からあって、その際に小さな椀に少量ずつ分けてできるだけ多くの人へ同時に行き渡るよう工夫をしたのが始まりだといわれています。また、食べ終わったら直ぐお代わりを無理強いするのは、「おてばち」といって、古くからある客人に対するおもてなしに由来します。 蕎麦屋が一般のお客に「わんこそば」と称して振舞うようになったのは花巻市の「大畠屋」(現存)が最初で、明治時代になってのことだというのが通説のようです。 領主南部家の第二十七代南部利直(1576~1632)が参勤交代で江戸に向かう途中、花巻に立ち寄り食事を所望したところ、殿様に一般と同じ丼では不敬になると考え、漆器のお椀にそばを少量盛り付けてお出しすると、ことのほかに喜ばれ、何度もお代わりをしたというのです。これが「わんこそば花巻起源説」です。 一方、「盛岡起源説」(注)もあって論争に喧しいのですが、それは取り敢えずおくとして、大正時代から昭和初期頃になると、花巻の一般家庭にはわんこそばの椀等の道具が備えられていたことが分かっていて、かなり幅広く食されていたことが確認されています。 話は変わりますが、岩手県とそばといえば、宮沢賢治(1896~1933)を忘れるわけにはいきません。賢治の「そば好き」は大変なものだったようです。 ![]() 岩手県の特産品(日本一)を調べてみると、漆と雑穀(ヒエ・アワ・キビ・アマランス等)があります。漆と椀子、雑穀とソバ、「わんこそば」が普及する下地があったようですね。 (注)わんこそば盛岡起源説 「花巻起源説」に対して盛岡市には「盛岡起源 |