郷土蕎麦の物語⑥

辛み大根が作った「越前そば」  昭和天皇との合作?

  「越前そば」と聞くと反射的に劇団民芸の故宇野重吉さんを思い出してしまいます。宇野さんは福井県人で熱烈な「越前そば」愛好者でした。おそらく宇野さんの中には郷土愛と越前そばが重なり合って存在していたのでしょう。私が初めて福井市を訪れたのも、宇野さんの書いた越前そば礼賛の短文の影響でした。それ以来、私の頭の中で、越前そばと宇野さんが一体不可分になってしまったのです。

さて本題の「越前そば」の話を始めましょう。

福井市の南東約100㎞にある一乗谷を中心に越前国を支配した朝倉氏が15世紀頃に救慌食としてソバの栽培を奨励したと言われています。「そば切り」が始まったのは、ずっと時代が下がって慶長6年(1601)の頃と言われています。関ヶ原の戦いで軍功のあった結城秀康が越前国68万石の藩主になり、家老として本多富正が府中(武生(たけふ))入りをしました。その富正が京から同道した金子権左衛門(そば職人)がそばに大根のすりおろしをかけて食べる、越前おろしそばの原型を作ったと伝えられていますが、真偽のほどは不明です。

 「越前おろしそば」は、味の濃い在来種(小粒)のソバ粒を石臼で挽きぐるみにして打ったそばはやや太めで荒々しくコシが強いのでしっかり噛んで味わうのが正しい食べ方で、噛まずにのど越しで楽しむという江戸そばとは一線を画しているといってよいでしょう。

 戦後間もない昭和22年、昭和天皇が福井県へ巡幸された折、随行した越前市出身の宮内庁主厨長(天皇の料理番)秋山徳蔵氏が福井の名店「うるしや」(注1・写真)にご案内して「おろしそば」をお勧めしたところ、大変お気に召しお代わりをされたと伝えられています。

 これには後日談があり、東京に帰られた昭和天皇が時に触れて「あの越前のそばは・・・」と懐かしまれたということですが、それを伝え聞いた地元福井のそば関係者たちの間で「越前そば」という言葉を使われるようになり、いつしか固有名詞として定着したということです。なんとも微笑ましい話ではないでしょうか。

 福井の名店「うるしや」はその後、後継者難から一時閉店をしていたのですが、平成31年4月、東京で「越前そば」の店を経営していた福井県出身の原崎(まもる)さんが引継ぎ元の場所・寺町に復活を遂げたということです(福井新聞)。私は平成15年頃のことだったと思いますが、店の前まで行って初めて休業中だと知り、すごすごと引き返したことがありました。経営者は違うとはいえ、往時の「うるしや」の姿が忠実に再現されていて、調度品や先々代が残した骨董品なども時季に合わせて飾られるといいますから、ぜひ機会を作って再訪したいと考えています。

 「越前そば」の最大の特徴は、言うまでもなく大根おろしにあります。
福井のおろしそばは、普通のお店でも薬味としてよくついてくるのと違って、辛味大根の汁をダシに混ぜてそばにぶっかけて食べる、のが流儀です。   辛味大根の特徴は、肉質が固くて水分が少ない辛味成分(アリルイソチオシアネート・注2)を多く含んでいて、おろすことで酸素に触れ辛み成分が生成されてくるのです。これには抗がん作用や抗菌作用もあるとされています。大根の形(写真)は下ぶくれで寸詰まりの小型なのが多く、ついている根が細くて長いところから「ねずみ大根」と呼ばれる品種もあります。
  享保・元文期の「諸国産物帳」(1735~1738)を見ると、福井をはじめ全国各地にからみ大根・ねずみ大根が産出されているのが分かります。収穫は10月下旬~12月頃がまさに旬で、新そばの時期と重なるのです。

福井市内の蕎麦屋を食べ歩きして気づいたことがあります。冒頭に述べた劇団民芸の故宇野重吉氏の足跡が何と多いことでしょう。前出の「うるしや」はもちろん? 「三井屋」「ふる里」等、福井の名物蕎麦屋には宇野氏直筆(写真)の色紙や写真が数多く残されています。宇野さんだけでなく、大滝秀治・樫山文江さんをはじめ民芸の俳優が多く出没している痕跡も残っています。恐らく公演の折に訪れる機会が多かったのでしょう。若い頃は芝居好きで、とりわけ民芸ファンだった私にはとても印象的な出来事でした。

 

 (注1)「うるしや」 文久元年(1861)創業の老舗。もともとは漆の販売生業(なりわい)としていましたが、文久元年に蕎麦屋に転業したと伝えられ
         て
います。

 (注2)「アリルイソチオシアネート」 大根をすりおろして細胞が壊れると、「イソチオシアネート」と「ミロシナーゼ」という酵素が混ざり合って化学
     反応を起こし生成される。「細胞を効率よく壊すこと」が必要で、大根の切断面を、繊維を断ち切るようにおろすのがよいといい
     ます。 

 

                           TOP