郷土蕎麦の物語⑦

割子(わりご)と釜揚げそばが名物の「出雲そば」

     茶を飲みて道具求めて蕎麦を食い庭を作りて月花見ん

                   その他大望なし 大笑大笑」 不昧

出雲松江藩中興の祖第七代藩主松平(はる)(さと)(不昧公・1751~1818)が大のそば好きだったことはこの歌で一目瞭然でしょう。不昧公と蕎麦をめぐる話は古典落語「不昧公夜話」(注1・徳川御三家を招いてそば切りを振舞った折りの小噺)をはじめ数多く残されています。不昧公のお蔭で今日(こんにち)の茶処・菓子処・そば処の松江があると言っても決して過言ではないでしょう。

さて、出雲そばですが、全粒挽きぐるみの色黒、太めで歯ごたえのある特徴ある田舎そばです。円形の(わり)()破子(わりご)と呼ばれる三段重ねの器に、そばとそれぞれ異なった薬味(葱・大根おろし・紅葉おろし・海苔・削り節等)が入っていて、それに辛目の汁をたっぷりかける、残った汁と薬味はそのまま次の器に移しながら、よく噛んで味わうというのが出雲流の伝統的な食べ方なのです。汁をそばの先きにちょこっと漬けて啜り込み、噛まずに喉越しを楽しむというのが粋な食べ方だと考えた江戸っ子とは明らかに違っていて面白いではありませんか。
 ここで「割子」誕生の経緯を辿ってみましょう。

江戸時代に流行った「(れん)」(注2)と名付けられた文化人たちの趣味の会が松江にもあって、遠出をする際の弁当箱として考え出されたのが、実は「割子」なのです。当初は角型だったのですが、明治の終わりころになって衛生上(角型は隅が洗いにくい)の理由からまず小判型になり、昭和の初めころに現在の丸型になったと言われています。

出雲そばでもう一つ忘れてならないのが「釜揚げそば」です。

出雲の「釜揚げ」は独特の製法で、湯がいたそばを水洗いせずにそのまま器にそば湯と一緒に入れてお客に出すのです。お客は薬味と汁を入れて味を調えて食べるという段取りになるわけです。この食べ方は先に説明した「割子そば」よりも古い歴史があると言います。もともと出雲大社の参道に並んだ蕎麦屋が貴重な水を節約するために行ったことから始まったと伝えられています。

ところで、出雲でそば切りがお目見えしたのは何時頃なのでしょうか。

寛文六年(1666)に出雲大社の本殿営に際して「蕎麦切振舞」があったとする数年前に発見された文書(神職・佐草自清「江戸参府之節日記」)が出雲におけるそば切りの初見です。そうなると、初代藩主松平直政(1601~1663)が信州松本から転封(てんぽう)(1638)されてきた折に導入されたのではないかとする、これまでの説がひときわ現実味を帯びてくるように思われます。

八岐大蛇伝説など神話の里として知られる奥出雲は、たたら製鉄の地でもありました。古墳時代に朝鮮半島をわたって伝えられた製鉄技術は奥出雲で開花したわけです。中国山脈の良質な砂鉄と豊富な木材、そして斐伊川の豊富な水がそれを支えたことは言うまでもありません。製鉄のために切り開かれた山の斜面や木炭を作るために木が伐採された中山間地(標高200~700m)は地味に優れ、昼夜寒暖の差が激しいソバ栽培に格好の地でもあったのです。

奥出雲で栽培されたソバ在来種は「横田小そば」(横田は旧地名)と呼ばれ、香り高く、甘みと粘りが強いのが特徴でしたが、粒が小さいため収量に劣るのが最大の問題点でした。次第に収量の多い品種に席を譲らざるを得なくなったのは、経済社会の必然とでもいうのでしょうか。

絶滅の危機に瀕していた「横田小そば」に僅かな光が当たったのは、平成十五年に始まった「そばによる町興しプロジェクト」でした。島根県農業技術センターに残っていた僅か1㎏の在来種ソバ種に「横田小そば」再生が託されたのです。

数年かけて栽培・選抜をくり返し、ようやく平成十九年に待望の栽培が復活しました。         

現在では、毎年十一月に「奥出雲そば祭り」が開催され、県外からも多くのそばファンが奥出雲を訪れるようになりました。八岐大蛇伝説でもお馴染みの櫛稲田姫を祭る稲田神社の中に蕎麦屋「姫のそば ゆかり庵」があります。

神社の中に蕎麦屋が、しかも棟続きの・・・珍しい取り合わせではないでしょうか。珍しいついでにもう一つ、JR木次(きすき)線の(かめ)(だけ)駅(注3)には構内に蕎麦屋「扇屋」があり、蕎麦屋の主人が駅長を兼任するという世にも珍しい駅が存在します。ご主人に「駅長と蕎麦屋のどちらが主で、どちらが従なのか」と質問したところ、「飯を食っているのは蕎麦屋だから、蕎麦屋が主です」と(のたま)われました。話のネタに、ぜひ一度訪れられては・・・。

 

(注1)「不昧公夜話」 三代目五明楼玉輔(1847~1918年)演

不昧公が夜蕎麦売りの風鈴の音に誘われて、お忍びで屋台のそばを食べってすっかりハマってしまい、自らそば打ちを学び腕も上がったので、赤坂の江戸屋敷に徳川御三家(尾張・紀州・水戸)招きそば切りを振舞ったところ、三公が一本の箸(割りばし)をどう扱ったらよいのか当惑している様子なので、江戸っ子がやるように前歯にくわえてパリッと割って見せたのに痛く感心して「う~ん、割りばしというものは口で扱うのであるか、なるほど・・・」という一席。

(注2)「連」 芭蕉を中心とした「蕉風俳諧」の登場で全国にブームを呼び起こした集い。俳諧は独吟するものではなく「座の文学」でしたので、そこに集まる人々のサロンを「連」と呼んだのです。

(注3)亀嵩駅 松本清張著「砂の器」の映画のロケ地として一躍有名になった駅。1日の乗降客は20人足らずの小駅で、蕎麦屋「扇屋」のご主人が委託を受けて管理する「簡易委託駅」。「亀嵩駅そば弁当」があって予約があればホームまで届けることも可能という。

 

   

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