郷土蕎麦の物語⑧

   祖谷に残る「平家落人」が作ったそば食の歴史

 

 祖谷のかずら橋ゃ 蜘蛛の巣のごとく 風も吹かんのに ゆらゆらと

粉挽き婆さん お歳はいくつ わたしゃ挽き木の うない年

粉ひけ粉ひけと ひかせておいて 荒いの細いの なしょたてる・・・(注0)

 祖谷には、かっての生活の厳しさを想像させる哀愁に満ちた「粉挽き歌」が残っています。祖谷渓谷が作る急峻な傾斜地は水資源に乏しく稲作には適さないので、ソバ・ヒエ・アワなどの雑穀が日常食とされてきました。「粉挽き歌」は日々の暮らしを支える女たちの仕事歌だったのです。彼女たちは「粉挽き歌」を歌うことで、襲ってくる睡魔と戦いながら夜なべ仕事をしていたのでしょう。

祖谷は秘境と呼ばれるにふさわしい自然環境にあって、古より人がなかなか定住せず人目を避ける必要のある人たちが肩寄せあって僅かに生命を繋いでいたと伝えられています。そのような中で、奥祖谷に伝わる平家落人伝説が800年余の昔から語り伝えられてきました。

平安朝末期、26年間にわたって日本に君臨したさしもの平氏も、6年間にわたる全国規模の治承・寿永の内乱(1180~1185)に疲弊し、最後は源頼朝率いる軍勢に屋島・壇ノ浦の戦いで敗れ統治者の座を降りることになるのです。その結果、平家の残党たちは分散敗走し追手の目をかすめて日本各地に隠れ住むことになります。その数、事実確認不詳のものも含めると優に百か所を超えるといいます。

祖谷もその中の一つで、長らく「平家落人伝説」として伝承されてきました。

屋島の戦いで敗れた平(くに)(もり)(注1)は幼い安徳天皇を守りながら讃岐山脈を越え吉野川を遡上して、最後に逃げ込んだのが東祖谷でした。現在も、祖谷は岐阜の白川郷、宮崎の椎葉村と並ぶ日本三大秘境に数えられていますが、当時は真に前人未到の地でありました。追手の目を避けるため(たいら)姓は一切名乗らず、有名な「かずら橋」もいつでも切り落とせるように蔓の枝を組み合わせて作ったといいます。しかし何よりも辛かったのは栄耀栄華を極めた(みやこ)暮らしとの落差でした。稲作の出来ない傾斜地を使って栽培したのはソバ・ヒエなどの雑穀で、特に栽培期間の短いソバを代用主食として「そば米雑炊やそば団子」を作り、都の正月料理を偲んだと伝えられています。

「そば米雑炊」(写真)は今日では、そばの実の食感を楽しみ、鶏肉・人参・大根・牛蒡・干し椎茸等とともに炊き込まれ、汁まで残さず食べられる貴重な郷土料理として県民の間で幅広く親しまれ愛されています。平成19年には農林水産省の「農山漁村郷土料理百選」にも選ばれた徳島県を代表する郷土料理なのです。

また訪日外国人の間でも日本食への関心が日々高まりつつあり、「和食」がユネスコ無形文化遺産登録」(2013年)を果たしたのを機に、農水省は「SAVOR JAPAN」(2016年)(注2)を発表、全国31カ所の「農泊食文化海外発信地区」を指定して訪日外国人を誘致し、農村に宿泊して日本の伝統食を味わってもらおうという政策を展開することになりました。徳島県阿波地区もその一翼を担うことになったのです。

八百年余の歳月を経て平家の落人たちが食した「そば米雑炊」を、21世紀・令和に生きる我々現代人(日本人のみならず外国人も)が時空を超えて楽しむ姿は何とも微笑ましく思われてなりません

 北隣の香川県はご存じの通り「うどん県」ですが、中山間地が多いためでしょうか、それとも平家落人のせいなのでしょうか、祖谷地域は四国の中で唯一の「そば切り」で名を馳せる存在なのです。

祖谷のそば切りはつなぎを一切使わない十割(とわり)そばで、通常のそばに比べると麺が太く切れやすい素朴な田舎蕎麦です。祝い事の際には必ずそばが出される土地柄ですが、麺線が切れやすいために「縁が切れる」として婚礼の席だけはそば振る舞いを避けるといわれています。

また、大歩危・小歩危から奥祖谷に続く祖谷川が作るⅤ字型渓谷に沿って蕎麦屋が点在する姿は他に見ることの出来ない光景です。ぜひ一度ご訪問されることをお勧めします。

(注0)祖谷の粉ひき歌 https://www.youtube.com/watch?v=9Utp0tHuppE

(注1)平(くに)(もり) 平教盛の次男(教経)、平清盛の甥にあたる武将。

(注2)Savor Japan(農泊食文化発信地域) 平成28年(2016)全国31カ所を指定、外国人を積極的に誘致し農家に泊まり日本の伝統食を       味わって貰おうという農水省の構想。SAVOR(英語)とは「味わう」の意。

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