世界の蕎麦の物語⑨

    タスマニアで「日本そば」の栽培が・南半球のソバ栽培

コロンブスの卵」の逸話をお聞きになったことがおありでしょう。

「誰でも思いつきそうでいて、最初に考えたり行ったりすることの難しさ」を指す際に使われる言葉です。タスマニアとそばの話は、眞に「コロンブスの卵」の発想が産みだした物語なのです。

 そばには「夏のそばは犬も食わない」の例え通り、春から夏にかけてそばの端境期には品質・風味が格段に落ちてしまうという弱点が江戸時代の昔から続いていました。暑い夏場はよく冷えたそばが好まれ、そばの需要が一番高まるのですが、解決の決め手の無いまま「夏の蕎麦」に色つけをするなどその場しのぎの対策に止まっていたのがこれまでの状況です。タスマニアにおけるソバの栽培は「犬も食わない・・・」を解決する一つの道を示したものなのです。

並木藪の先代店主・故堀田平七郎氏が著書「江戸そば一筋」の中でタスマニア蕎麦誕生の経緯(いきさつ)を記していますのでご紹介しましょう。
 平七郎氏がたまたま行きつけの小料理屋のカウンターで飲んでいると偶然隣に座った客がそば粉屋の主人だというので話が弾み、「夏のそば粉はつながりがだめだ」「いやそんなことはないウチのそば粉なら大丈夫」となって、結局は並木藪にそば粉を持ち込み実証することになったそうです。結果はやはりつながりが良くないことが分かり、そば粉屋の主人は課題として持ち帰ったということです。そのそば粉屋の主人こそ、「タスマニアそば」の生みの親となった「白鳥製粉株式会社」社長・白鳥利重氏だったのです。その後、いろいろな試行錯誤の結果辿り着いたのが、地球の反対側・南半球にある緯度でいえばちょうど北海道南部~東北北部辺りに相当するオーストラリアでした。それは「オーストラリアで栽培すれば、夏でも新そばが味わえるのではないか」という逆転の発想でした。早速、種子をオーストラリア政府に送り栽培実験を依頼したのですが、思惑は見事に外れ、結果は失敗に終わったのです。

その後も利重氏は平七郎氏の要望を実現するために種々努力を重ねるのですが、はかばかしい成果を得ることは出来ませんでした。その最中(さなか)の昭和57年、突然の不幸に襲われ利重氏は急逝してしまうのです。かくして「夏そば開発」の課題は新しく社長になった長男・理一郎氏に引き継がれたのです。理一郎氏は父の「豪州でそばが栽培できれば、日本の端境期に新そばを出荷できるのだが」という言葉を、オーストラリアの片田舎の大学に留学していた頃耳にしていましたので、父の失敗の原因を探るためにオーストラリア政府・小麦局に問い合せ、当時のレポートを取り寄せたところ、とんでもない事実が分かりました。オーストラリアは日本と真反対の南半球にあるので、半年ずれた時期に種子を蒔くべきところ、日本と同じ時期に蒔いたのが失敗の原因だと判明したわけです。

「父の考えが間違っていたわけでない。自分の手で品質の高いそば栽培を目指そう」と理一郎氏は決意し、「サザンクロス(南十字星)計画」と名づけ、本格的にオーストラリアでのそば栽培に乗り出したのです。1985年に理一郎氏はタスマニア州首相(当時)のロビン・グレイ氏に会い、州農務省次官アラン・スミス博士にそばの栽培試験を依頼することに成功します。その後宮崎大学農学部の足立泰二教授や、スロベニアのリュプリャナ大学教授でソバ育成学の権威・イワン・クレフト氏にも技術的な教えを受けて、タスマニア農務省に栽培試験を行ってもらったところ、見事に実験栽培は成功し日本のそばに優るとも劣らない品質の蕎麦が誕生したのです。それを契機にして本格的に栽培が始まり。1988年4月には「タスマニアそば」の日本への輸出が実現するまでに至るのです。先代の利重氏がオーストラリアでの栽培を思い立ってから実に親子二代にわたって30年余の歳月が経っていました。
 かくしてタスマニア産のそば粉は、開発の端緒を作ったお二人(並木藪の先代・堀田平七郎氏と白鳥製粉の先代・故白鳥利重氏)の名前を取って「利平」と名が付され発売されたのです。

タスマニアの気候風土とそばの特性について少し紹介しておきたいと思います。
 タスマニアは既述の通り、赤道を挟んで北海道南部~東北北部とほぼ同じような位置にあって、平均気温は10~25℃、1日の寒暖の差は大きく朝霧が発生し易い気候は日本の著名なソバ生産地と非常に似通っていて「そば栽培の適地」と考えられます。収穫されたそばも豊かな風味でコシが強く、のど越しの良さにも恵まれた日本人好みのそば粉だと中々の評判で、単収も日本の約1.5倍に達するといいます。タスマニアからの輸入量も年々増加し、現在中国・アメリカ・ロシアに次いで第4位に至るほど成長してきたのです。タスマニア当局の認定基準も厳しく管理されているのはもちろん、最も心配される日本への長距離船積み中の温度も、20℃を超えないようコンテナで厳重な管理が行われているといいます。

 余談になりますが、理一郎氏の夢は「夏そば」栽培の実現だけに止まらず、思いもよらない副産物を生み出しています。
 オーストラリアはオゾン層の毀損によって紫外線が強いことは皆様ご存じの通りです。動くことの出来ないソバは抗酸化作用を持つポリフェノールの一種である「ルチン」の働きを活発化させて自らを守るといいます。故氏原暉男氏(注)がヒマラヤ山脈のネパール・ムスタン地方から持ち帰った種をベースにタカノ(株)と共同で新種開発した「高嶺ルビー」(ルチン含有量が多い)を試験的に栽培したところ、日本国内では台風や霜害に見舞われて安定した収穫が困難でしたが、タスマニアの地で見事に赤い花を咲かせたのです。単収も日本の3倍に及ぶといわれていて、将来が楽しみなプロジェクトではないでしょうか。

また白鳥理一郎氏は、タスマニアでソバ栽培をするだけにとどまらず、純日本風の蕎麦屋「新ばし」(次号で紹介)の豪州進出の支援や、日本の桜(ソメイヨシノ)1000本を寄贈したりして日本文化の紹介にも貢献しようと努めています。「コロンブスの卵」の発想から出発した「夏そば」は、かくしてオーストラリア本土の南方約240㎞の海上に浮かぶ面積68400㎢、北海道を一回り小さくしたようなタスマニア島に根付こうとしているのです。

 

(注)氏原暉男(1934~2013) 京都大学卒。信州大学名誉教授。信州大ソバ・高嶺ルビー・グレートルビー・サンルチン等の新種開発育種に成功。晩年はかつて「魔の三角地帯」と呼ばれた地域に、ミャンマー政府からの要請でソバをケシの代替作物として育て、麻薬追放活動に専念する。 

 

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