世界の蕎麦物語⑩

   日本蕎麦屋の海外進出・・ニューヨーク・パリ・ロンドン


  ユネスコの「無形文化遺産」として日本の「和食」が登録されたのは2013年のことです。フランスの美食術(ガストロノミー)、地中海料理(スペイン・イタリア・ギリシャ・モロッコ)、メキシコの伝統料理(トルティージャ等)、トルコのケシケキ(麦がゆ)料理に続いて5番目の快挙でした。

これを契機として高まってきた「本場の日本食」を体験したいという外国人をターゲットに、2016年には農林水産省が「SAVOR JAPAN」(注)を創設して、「日本食文化」の情報発信を本格化させようと取り組みを始めました。

民間ベースでも寿司を先頭に和食の海外進出がいつにない高まりを見せています。

そこで、そばの海外進出ですが、直近の話題としては、藪・砂場と並ぶ老舗中の老舗「更科堀井」(麻布十番に本店・創業230年)がコロナ禍(第6次)を見据えたかのように2017年7月、ニューヨーク・マンハッタンに満を持しての開店を果たしたことでしょう。(右写真参照)

お家芸の更科そばはもちろん、普通そばの十割、二八もメニューに加わり、紫蘇、柚子、胡麻等を練り込んだ変わり蕎麦など日本と全く同様のフルラインアップを目指すといいます。

世界一の激戦地であり、名店が軒を並べるニューヨーク・マンハッタンには、これまでにも東京・荻窪の名店「本むら庵」が五番街に出店し、沢山のニューヨーカー達に愛されてきたのですが、本むら庵経営者の代替わりによる方針の転換もあって、多くの蕎麦ファンニューヨーカーたちに惜しまれつつ2007年に閉店し17年にわたる歴史に幕を閉じた経緯があるだけに、今回の「更科堀井」の進出は大きな期待を持って迎えられていると報じられています。開店後は予想以上の人気が集まっているようです。

真正な日本蕎麦屋の海外進出はNYに限った話ではありません。イギリスの首都ロンドンでも、あのアパレル業界で有名なオンワード樫山が2017年11月に本格的な蕎麦屋「(えん)」を出店しました。ロンドン中心部のオフィスエリアに近接した高級新開発地域・190ストランドに1階と2階、併せて450㎡の空間に109席の「手打ち蕎麦を中心に寿司カウンター」もある本格的な日本食レストランだといいます。手打ち蕎麦はそば打ち名人として著名な高橋邦弘氏の薫陶を受けた桜井克樹氏が担当(社長兼任)、本場の手打ち蕎麦を心ゆくまで堪能頂くといった趣向のようです。

実はオンワードが本格的な蕎麦屋を海外に出店するのは、これが初めてではありません。2000年にはパリの中心地サン・ジェルマン・デ・プレに蕎麦会席レストラン「円」を出店しているのです。従ってロンドン店は第2号店になるわけです。(左写真:ロンドン店)

パリ店は、セーヌ川畔から南北に走るボナパルト通りと、トゥール・モンパルナス界隈まで南北に続くレンヌ通りとが接続する交差地点辺りの超高級といわれる地域への進出だったので当時大変な話題を呼びました。

・・・とご紹介してくると、何故アパレルメーカーが「食」に関わるのか?・・・と意外に思われる向きもあるだろうと思います。

蕎麦屋のパリ進出について「このレストランの目的は、日本の食文化を世界に発信すること。そのために日本伝統の食と器、和の空間に徹底的にこだわりました」(オンワード社・白井秀樹氏)とパリ店開店の狙いが述べられています。

生活文化を標榜する企業として、「食」の分野においてもジャパン・クオリティを世界に発信しようという意図が読み取れます。

パリの「円」に9年間そば職人として勤務したことのある蕎麦屋「大阪松下」の店主・松下徹さんに「フランス人の客も多いのですか?」と尋ねると「七割は現地の方です。常連さんが増えています」と答えが返ってきた。どうやら真正の日本蕎麦と接客も含めた和の空間(日本の食文化)が現地に受け入れられているらしいのです。オンワード樫山はパリの「円」の実績を踏まえてのロンドン進出でした。

海外で日本料理の看板を掲げるお店を見つけ入ってはみたものの、名ばかりの和食に期待を裏切られた経験をお持ちの方も多いのではないでしょうか。ニューヨークの「更科堀井」と同様に日本の中でも一流中の一流料理職人が作った和食(そば切り等)の神髄に触れて、これに共感する外国人が増えていることに我が意を得たりと思うのは私だけではないでしょう。

さてここまで書いてきて、ニューヨークやパリ・ロンドンとは違って、地球の真反対・南半球にある大都市シドニー(オーストラリア)で本格的な日本蕎麦屋「新ばし」を20年の長きにわたって苦闘しながら経営してきた柴崎好範さんを同じ文脈の中でご紹介したいと思います。

柴崎さんは静岡の老舗蕎麦屋「新ばし」(1954年創業)の次男として生まれ貿易会社に勤務していたのですが、幼少のころから親交のあった白鳥製粉の理一郎社長(「タスマニアでソバ栽培」の項参照)がオーストラリアのタスマニア島で日本ソバの栽培に成功したとの報(1988年)が切っ掛けとなってタスマニア島を訪れ、理一郎社長が丹精込めて作った「タスマニアそば」に大いに感動して家族と一緒に現地へ移住(1991年)して蕎麦屋の開業を決意したのは、柴崎氏が39歳の夏のことでした。

 2年後にはオーストラリア最大の都市シドニーに居を移し本格的な日本蕎麦屋「新ばし」を開業するに至ったのです。直情径行的ともいえる彼の行動を支えたのは唯々「美味しいものは必ず分かってもらえる筈」という信念だけでした。開業以来ずっとメニューには「SOBA」と表示し、英語の「BUCKWHEAT」(蕎麦の意)は決して使わなかったといいます。この頑固さ(信念)はそば打ちについても、日本で学んできたスタイルを変えなかったところにも表れています。当初は「SOBA」の認知度は当たり前のことですがゼロに近く、客足が全くないので毎日のように街のレストランを食べ歩きする市場調査が続いたそうですが、辛抱強く続けるうちに徐々に「SOBA」の名前も知られるようになり、常連客も少しずつ増えていったといいます。此のシドニーの店は漫画雑誌「ビッグコミック」の「美味しんぼ」(雁屋哲・1988年オーストラリアへ移住)にも掲載され話題を集めました。

 

   (注)SAVOR JAPAN 農林水産省が主宰する「農泊食文化海外発信地域認定制度」のこと。SAVORとは「味わう」の意。

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