蕎麦の常識非常識

「そば湯」を何故飲むのでしょうか?


 
うどんやソーメンの茹で汁を飲むという話はついぞ聞いたことがありません。なのに、何故そばの茹で汁(そば湯)は飲むのでしょうか?

 そもそも「そば湯」の習慣は昨日今日始まった話ではありません。

 元禄十年(1697年)に出版された食の百科事典とも言われる人見必大著「本朝食鑑」に「そばを食べた後にこの湯を飲まないと病にかかる」と書かれています。ですから既に三百年以上も前から「そば湯」は飲まれていたことになります。

 さらに江戸時代唯一の蕎麦専門書といわれる「蕎麦全書」(日新舎友蕎子・1751)にはそば湯の効用と普及の経緯が次のように書かれています。「諏訪の旅籠で蕎麦を食べてところ、蕎麦の後に直ぐそば湯が出た。江戸では麺の毒を散らすために「豆腐の味噌煮」を出すが、何故信州では「蕎麦湯」なのかとたずねると、旅籠の主人は『食べた蕎麦が胃に落ちつき胸がすっきりする』と、答えが返ってきた」と・・・。

 江戸へ帰った友蕎子が知人に「そば湯」を振舞うとすこぶる評判がよい。そのようなことから江戸でも蕎麦食の後にそば湯を出す習慣が広がるようになった、とあります。本朝食鑑の「病にかからない」はともかくも、「そば湯が健康によい」という点は二つの書物に共通しているようです。

 確かに、そばには良質のたんぱく質や食物繊維を初めビタミンB類・ミネラル類など幅広い栄養素が豊富に詰まっていることが現在では科学的に明らかになっていますが、江戸時代にはそのような知識はなかった筈です。ただ経験知としてそばの効用が語り継がれていた可能性はあるでしょうが、普及の理由としてはいまひとつ説得力に欠けるように思います。

 古い蕎麦屋の隠語に「お(しな)()」というのがあります。お察しの通り「そば湯」のことを指した言葉です。東京弁(江戸弁)では「おひなゆ」がなまって「おしなゆ」となるわけです。隠語で「お雛」は小僧のことで、職人はお茶を飲めるが、まだ修業中のお雛(小僧)は、高価だったお茶は飲ませて貰えず、そば湯は腹の足しにもなるので、「まかない」として辛汁を数滴落として飲むことがあったといいます。

 ところが、「お雛湯」が結構美味しかったので、次第にお客にも出すようになり、いつの間にか「まかない」が「お品書き」に昇格したというわけです。こちらの話の方が私には納得性があるように思えるのですが如何でしょう。

 現在ではいっぱしの蕎麦屋であれば蕎麦に「そば湯」は付き物で、蕎麦湯が出て来ないと何とも収まりがつかないのではないでしょうか。

 もしそば湯が出てこなかったら、遠慮せずに催促しましょう。「蕎麦全書」ではありませんが、腹具合が落ち着くこと請け合いです。寒い折には特に体を温めること疑いありません。

 そば湯誕生の経緯はともかく、多種多様な栄養素が溶け出しているのに飲まずに捨ててしまうのはもったいないことも確かです。

 そばに含まれているたんぱく質の半分程度は水溶性であり、そばのうまみ成分でもあるので、そば湯を飲めばそばを余すところなく味わうことになります。そのほかにも水溶性の栄養素としてビタミン・ミネラルや食物繊維等がそば湯には多く含まれています。

特に、ビタミン系のコリン(B群)は水溶性なのでそば湯に溶け出しています。肝機能の向上や肝脂肪の予防に有効だとされています。ぜひ捨ててしまわずに、そば湯で回収していただきたいと思います。

ただ、そば湯に「ルチン」が含まれているという俗説をよく耳にしますが、これは誤りです。蕎麦に含まれる自然ルチンは不水溶性でそば湯に溶け出すことは殆どありません。ルチンはポリフェノールの一種で、毛細血管を強化する働きがあり血圧の安定化にも効き目のあることが証明されています。穀物の中では唯一そばだけに含まれる折り紙付きの栄養素ですから、そば食は大いに推奨です。

 「そば湯」も時代を経て進化を続けています。ご経験があると思いますが、開店時間直後(11時~12時頃)のそば湯はとろみが薄く、ただのお湯を飲んでいるような感じになります。まだ十分に蕎麦を茹でていないのですからさら湯に近いのは無理もないことです。

 そこで最近では別途にそば粉を溶かし込んで濃厚なそば湯(ポタージュ系)を準備しているお店が増えてきました。このアイディアは長野県の黒姫高原にある著名な老舗蕎麦屋「ふじおか」が初めてであるといわれています。

 信州で始まった「そば湯」が、再び信州の蕎麦屋のアイディアで進化を遂げて行く、やはり信州は日本のそば切りの中心地なのですね。

 「そば湯」の誕生と普及の経緯について述べてきましたが、事のついでに、といったら叱られそうですが、少し「湯桶(ゆとう)」(注1)にまつわるお話をしたいと思います。老舗蕎麦屋に行くと、そば湯が木製の塗り物で、角から横の方に注ぎ口が突き出ている最近ではあまり見かけることのなくなった容器に「そば湯」が入って出されることがあります。あれが湯桶なのです。

 江戸時代に初めてお目見えしたといわれていますが、元々は酒器で蕎麦固有の容器ではありません。いつ頃からそば湯入れになったのかは残念ながら定かでありません。

 この湯桶にちなんだ例えに「蕎麦屋の湯桶」というのがあります。人の話を最後まで聞かずに横から口を挟んでくる人(こと)を指すもので、決して良い例えではないようです。

脱線ついでにもう一つ付け加えると、「湯桶読み」という言葉があります。二文字の熟語で上の字を訓で読み、下の文字を音で読むことをいいます。その反対が「重箱読み」(上の字を音読み、下の字を訓読み)になりますね。湯桶を上下とも音読みすると「とうとう」になりますし、両方を訓読みすると湯桶(ゆおけ)になり、銭湯や温泉に置いてある湯を汲む(おけ)になってしまいます。

脱線はこれくらいにして、「そば湯」の上手な飲み方をご説明して、最後を締め括りたいと思います。

 時々、そば猪口に残った漬け汁にそば湯を加えて飲んでいる方をみかけることがありますが、漬け汁には塩分多く含まれています。塩分の取り過ぎにならないよう十分注意してください。ですから漬け汁が多目に残っている場合は、別の「そば猪口(ちょこ)」をもらい、そこにそば湯を入れて、お好みで・・適量の漬け汁と予め残しておいた山葵を加えてお飲みになることをお勧めします。

 そば湯でそば食の余韻を楽しむ、そば好きには堪えられないひとときなのです。これはうどん等にない、そば食だけの醍醐味でしょう。

 

                          TOP