蕎麦の常識非常識③   
      「そば切り」と京都の豊富な地下盆水

京都盆地の地下には琵琶湖に匹敵する水量を持つ巨大な水盆が隠れ潜んでいるということをご存じでしょうか? 
 ご存知の通り、京都は夏暑く、冬は底冷えのする厳しい盆地にあるのですが、この盆地を囲むように聳える比叡山に代表される山々・・北山・西山・東山三十六峰に降り注がれた雨が京都盆地の地下へ流れ込み長時間をかけて濾過され蓄えられてきたのだそうです。

 東西12㎞×南北33㎞、南へ行くほど水深が深くなり、かつての巨椋池の直下では水深800㍍に及び水量211億トンの琵琶湖の約8割に匹敵する巨大な水甕になったのです(元関西大学学長・楠見晴重著「古都に眠る千年の地下水脈」)。しかもその殆どが軟水で柔らかくまろやかで繊細な水質だそうです。この豊かな水源が京都の暮らしを支え、類例のない幅広い京文化を育んで来たことは今更ご説明するまでもないことでしょう。
 名高い京料理も旨みのある「出汁」があってのこと。ミネラル量の低い京都の水は昆布の旨み(グルタミン酸)を引き出すのにぴったり。北海道の昆布と京都の水を繋ぐ仲人役はあの北前船が果たしたのです。
 
 灘の男酒(硬水)に対して女酒(軟水)と呼ばれる伏見の酒造り、水温が年中一定で、ミネラル分の少ない軟水が南禅寺の豆腐の美味しさを引き出しています。湯葉・生麩・京野菜や京菓子等に至るまでの豊かな京都の食文化を育んできたのが、外ならぬこの地下盆水だったのです。

 茶道・華道の発展にも深く関わっていることも周知の事実です。北は紫明通から南は錦小路通まで小川通りに立ち並ぶ表千家・裏千家・武者小路千家の茶道三千家、京都を本拠地とする華道の元祖池坊家の存在を語るだけで充分でしょう。京友禅に代表される染物も忘れることは出来ません。京友禅は糊や染料を洗い流すために水をたくさん使用しますが、水温が一定で、かつマンガンや鉄分が少ないものが必要とされます。京都の地下水はこれにも適した水質なのです。それぞれのお店の中に井戸を掘り(普通は地下10~25m)自家名水として活用しているのです。上水道が完備しているにもかかわらず京都には7000余の井戸が掘られています。平安京の水を守るために建立された下鴨神社、現在の京都御所、美しい庭園を持つ二条城や神泉苑は、浅い地層から良質な地下水が得られる同一の砂礫層の上に造られているといいます。このような、多数の美しい庭園が今も京都に観光客を引きつけているのです。

 さて本題の蕎麦ですが、十割そばの原料はそば粉と水だけです。他に例がないほどシンプルを極めた食べ物で、打ち上がった蕎麦の約3分の2は実は水なのです。純度の高い水が求められるのは当然のことで、求道的蕎麦屋は水を求めて転地、自ら井戸を掘るお店も決して少なくありません。蕎麦出汁のうまみも昆布が主役であるのは言うまでもない話です。蕎麦本体はもちろん、そば出汁も京都の軟水がぴったりで昆布の旨味成分を十分に引き出してくれます。京都に有名な老舗蕎麦屋が多いのも頷けることでしょう。
応仁の乱(1467年)の2年前に創業した本家尾張屋は元を正せば「和菓子屋」でした。公家や寺社の催事につきものの和菓子が京都で栄えたのは当然と言えば当然なのですが、洋菓子と異なって和菓子は小豆を洗う、餡を炊く、寒天を戻す等、水は小豆や米粉・砂糖などと同じように材料の一つなのです。 そのお菓子屋へ同じ粉ものを扱うということで、そば切りの注文が来るようになったといいます。先代当主・故稲岡伝左衛門氏のお話によると、元禄(1680年~)の頃にはいつしかそば切りが商売の主流を占めるようになっていたのではないか?ということでした。菓子屋から蕎麦屋へ。公家・寺社で栄えた都ならではの発展形態と言えるでしょう。

 明治元年創業の老舗()(ごと)そばは繁華街のど真ん中にあるにもかかわらず、お店に井戸を掘っている代表格の蕎麦屋といえます。四条烏丸に近い蕎麦屋・笹屋は、公式HPによると「豊園水」と呼ぶ秀吉ゆかりの名水を用いているのだといいます。秀吉が茶の湯に使ったと伝えられる邸内の井戸豊園水に因んで命名したのだそうです。

 再び地下水盆の話に戻りますが、水盆の出口は天王山と石清水八幡宮のある男山の幅約1㎞に(くびれ)れた辺りで堰き止められていて天然の地下ダムができているわけです。そのため、僅かな量しか地下水が流出しないので巨大な地下盆に成長したと考えられます。しかし豊富な水量を誇る京都盆水も昭和30年代頃から、宅地が広がり、道路の舗装や地下工事が進むにつれ、雨水の地下浸透が激減したため水量が次第に少なくなり、かつての浅井からの自噴も少なくなり、現在では深井戸(50~100mを超える)からポンプで汲み上げるようになったといいます。

 地球環境の劣化が喧伝されて久しいのですが、炭酸ガス削減問題のみならず、こういうところにも人間のなせる悪行?の痕跡が残っています。世界に誇る京文化を今後も維持・発展させるには良質の水資源をいかに確保出来るかにかかっていると言っても過言ではないでしょう。

 旨い水のある処、美味い蕎麦屋あり・・・、江戸そばとはひと味違った美味しい蕎麦と蕎麦屋が京都に誕生し続けることを願うのは私一人ではないと思います。

 

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