蕎麦の常識非常識⑦

     「箸を使う食文化」が線状麺を生んだ  東アジアの線状麺(蕎麦・拉麺・冷麺・フォー等)

 その昔、人間は全て手掴みで食事を摂るのが日常でした。

ところが火を使うことによる熱い食物の出現で様々な食具が必要になり、それに気候、風土、作物、民族、宗教、文化などの要因が加わって各地独自の食文化(手食文化、箸食文化、ナイフ・フォーク・スプーン等を使うカトラリー食文化)が誕生したといいます。

「手食文化」とは人が食事を摂る際に、手で直接食べ物をつかみ口に運ぶ食習慣を指していて、現代では、アフリカ、中近東、インド、東南アジア、オセアニアなどを中心に、世界の約44%の人達がこの文化圏にあるといわれています。一見手食は不潔だと思われがちなのですが、手食文化圏内では食べ物を口に入れる前に手(指先)で味わうことから食具を使うよりも優れているとされ、また食器、食具よりも良く洗った手の方が清浄であるとも考えられているようです。「手は神から与えられた最高の道具である」という宗教観が影響しているのでしょう。手食は箸食文化圏やカトラリー文化圏の中にも残っています。例えば日本のお寿司、西欧社会のパン食などの場合のように・・・。

 「箸食文化」は中国・朝鮮半島・日本・台湾・ベトナム・タイ・シンガポール等の東アジアが中心で世界の約28%がこの文化圏に属するとされています。しかし、実際にはスプーンを共用している国が圧倒的に多く、例えば朝鮮半島のように食器が金属製であったり、熱された鉄製鍋が使われるケースが多く、日本の木製椀のように手に持つことが出来ないといったような事情もあって、箸のみを使う食文化は世界中で実は日本だけのようなのです。 箸の起源は古く紀元前16世紀の中国に遡ります。『魏志倭人伝』には、手づかみで食事をしていた記述があり、後の『古事記』や『日本書紀』などには箸食に関する記述があることから、日本への伝来は4世紀から7世紀の間と推測されています。

 それらに比べるとカトラリー食文化圏でナイフやフオーク・スプーンを庶民が使うようになったのは、意外や17世紀~18世紀頃だそうで、それまでは手食が一般的であったといいます。さらに現在のフレンチやイタリアンのようにこれらの食具がセットで使われるようになったのは19世紀初頭だといいますから、僅か200年余の歴史しかないことになります。欧米が中心で世界の約28%の人ががこの文化圏に属しています。

 このような食事形態の差が夫々の地域特有の食材・料理を育んできた(相互作用)ことは今更指摘するまでもないことでしょう。例えば、パサパサしたインディカ米は手食に向くが、粘りのあるジャポニカ米は手に着きやすいので箸食が適当であるし、肉食の場合でいえば、切り裂き・突き刺して食べるステーキはナイフやフオークがないと食べにくいし、すき焼きなどには箸食が適当だといった具合です。

 文化人類学の権威・石毛直道氏も「箸を使う典型的なものに「麺」がある。線状にした粉食料理は箸を使う文化圏で生まれたものであり熱いスープの麺料理に必須の道具は箸である」(「食文化入門」)と、線状麺が東アジアの箸食文化圏にのみ普及していることを強調されています。日本の「蕎麦・うどん・素麺等々」であり、朝鮮半島の「冷麺」、中国の「拉麺」、ベトナムの「フオー」等がその代表といえます。

麺食は世界各地に存在するのですが、線状麺が普及しているのは東アジア以外ではイタリアの「パスタ」と「ピッツオッツケリ*2」だけだといわれています。イタリアは箸文化圏ではなくカトラリー文化圏なので、線状麺がイタリアだけに単独で誕生したとは考えにくく、今もってパスタの起源については謎に包まれています。石毛直道氏はこれを「ミッシングリンク(失われた環)」と名付け、麺文化伝播の謎としています。

線状麺のイタリアへ伝えた人物はマルコ・ポーロであるとする面白可笑しい説が多く流布されているのですが、石毛氏はこれに否定的です。筆者もマルコ・ポーロ説には無理があると思っておりますが、紙幅の関係から別の機会に詳述することにします。

手食文化圏では車座になって大皿に盛った皿からそれぞれが手で料理をとり食べるスタイルが一般的であり、箸食でもとりわけ日本の場合は器が小さく木製である場合が多かったので器を手にもって食べるのが習慣になっていますが、カトラリー食文化圏ではナイフを使用するので、料理を比較的大きな平皿に盛るケースが多く、器を手に持つことは逆にマナー違反になります。

またカトラリー文化圏では、ナイフなど金属製の食具を使用するため、食事中の音に敏感になり、逆に日本の場合は箸や木製の椀を使うため、食音については比較的寛容であったのではないかと思われます。

このように手食・箸食・カトラリーの食具の使用は、料理自体にはもちろん、マナーや食事様式にも多くの影響を与えていることが分かります。

 ここで日本の箸食文化について少しお話ししたいと思います。

 箸食は東アジア一帯に広がっているのですが、箸のみを食具としているのは日本だけであることは既に述べた通りです。それだけに日本人と箸の関係は際だって深いのです。皆さんが幼児であった頃のことを思い出してみてください。                 

 恐らく最初に躾けを受けたのは「箸の持ち方」だったのではないでしょうか?

 私も母親から何度も何度も教えられたことを覚えています。日本人の器用さは幼児期からの微妙な箸使いの会得に始まる、とする論者も多いのです。

 また日本では、ほとんどの家庭で箸は個人専用になっているのが普通で、共用は稀なケースだといえます。これは箸には使った人の唾液と一緒に魂も宿ると古来信じられていたためだといいます。考えてみれば、日本人の一生は箸に始まり箸に終わるともいえます。お食い(おくい)初め(ぞめ)に始まり、専用の箸が与えられ、死ぬと箸で骨を拾い、お供えにご飯に箸を立てて供養する・・・。これ等は箸食文化圏の中でも日本だけの風俗習慣です。

 さて本題の「そば食と箸」ですが・・・

最近では蕎麦屋で出される箸は主に割りばし(江戸時代は引き裂き箸と呼ばれた)が多いのですが、大正期頃までは割り箸はうなぎなどの高価な料理に出されるもので蕎麦の場合は使いまわしの出来る丸箸だったようです。

小林一茶の句に「陽炎やそばやが前の箸の山」があります。

この句は蕎麦屋の店先に客が使った丸箸を干すために並べている様を詠んだもので、当時の様子がうかがえる句であります。

そば食に特別の箸があるわけではありませんが、箸先が細く四角形のものが麺を確り挟むことが出来ると思われます。

そば食のマナーの一つに「そばの切れ端も残さず全て食べる」というのがあります。簀の子の間に残った短い蕎麦の切れ端を摘まみとるのは結構難しいので、四苦八苦されている姿を時に蕎麦屋で拝見することがありますが、実はとっておきの秘術があるのでご披露しましょう(笑)。割り箸を垂直に立てて使ってみて下さい。思いのほか簡単にとれるのです。お笑いにならず、いちど是非お試しになってください。

 最後に、箸に関わる心に残るお話をひとつ・・・

 千利休は茶会のお客をもてなすのに、自ら小刀で木を削り一人ひとりのために心を込めて箸を作ったといわれています。「貴方様のために作ったお箸です。貴方様が最初にお使いになり、再び使うことはありません」・・・これこそ一期一会の精神、「おもてなし」の真骨頂といえるのではないでしょうか。

 
*1 カトラリー(Cutlery)とは、中世フランス語のcoutellerie(刃物の総称) に由来するといわれています。現在ではナイフだけでなく、食卓で使うス        プーンやフオーク等も含む総称として使われています。

*2 ピッツオツケリ 切り麺は短く太いのですが、日本の二八蕎麦と同様に「そば粉80%に小麦粉20%」なのです。イタリア最北部・ロンバルデ      ィア州とスイス国境近くの ヴァルテッリーナ地方に古くからあるようです。


    

 

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