蕎麦の常識非常識⑨
      「江戸患い」「大坂腫れ」をご存じですか?

 
江戸時代中期、元禄の頃(1680〜1709)、参勤交代で江戸詰めをした武士たちの間で脚が腫れる奇病が流行ったといいます。ところが国元に帰ると治ってしまうので江戸の風土病として恐れられたようです。文化文政(1804~1830)の頃になると江戸だけでなく大坂などの都市部の町人たちの間にもこの病気(「大坂腫れ」と呼ばれた)は広がってきました。

 お察しの通り、現在でいう脚気だったのです。玄米に代わって白米を食べる習慣が都市部の裕福な層に広がりビタミンB1が不足したために起こった病いでした。当時はビタミンB1不足が原因などと知る由もなかったのですが、蕎麦を食べるとたちどころに病が治ることは経験的に分かっていたようです。原因がB1不足であることが鈴木梅太郎(写真)によって明らかにされ(1911)まで、脚気は肺結核と並んで国民病といってもよいほど長い間人々を苦しめてきました。とりわけ軍隊のように団体生活をしている場合はより話が深刻になります。

 日本の陸軍と海軍が兵食の内容を巡って論争を繰り広げたことは、今もって語り伝えられるほど有名な話です。論争の一方の主人公が、あの森林太郎(森鴎外)だったから余計です。海軍の海軍軍医高木兼寛は、欧米の海軍には脚気が発生していない事実と、白米食の軍艦と洋食の軍艦を比較して、脚気発生率がそれぞれ23%と1%であったことから脚気は食事内容(「栄養説」)によるものと判断し、麦飯を早くから採用しましたが、森林太郎をはじめ陸軍軍医達は海軍への対抗意識があったからか,「脚気菌による伝染病説」を主張して白米食に固執したのです。当然のことですが結果は惨めなものでした。
 日清戦争(1894~1895)では陸軍の軍人・軍属の死13,309人のうち病死者が11、894人もあり、そのうち脚気によるもの4089人(39%)と最多だったのです。信じられない話ですが、戦死者は僅か1417人に過ぎませんでした。また10年後に起きた日露戦争(1904~1905)では陸軍の病死者37、000人でしたが、驚くべきことはそのうち脚気によるものが27、800人にも達したのです(東京大学名誉教授・大井 玄「森林太郎と脚気」)。日清・日露戦争は清国・ロシアとの戦いというよりも、脚気との戦いであったといっても決して過言ではないくらいです。

 結局、陸軍が白米食をやめ30%の麦飯に切り替えたのは海軍に30年遅れてでした(そば食を導入していたらもっと良かったのですが)。この判断ミスに森林太郎が大きく関わっていたことが明らかになったのは、1981年に東京大学医学部衛生学教授山本俊一が学会誌「公衆衛生」で指摘したのが初めてでした。両戦役終戦後約一世紀近い月日が経ってからのことなのです。閉鎖的だった医学界らしい出来事とも言えますね。

 明治を代表する文豪・森鴎外の名声も、医学の世界(森林太郎)では、あまりにも官僚的な態度が目立ち甚だ芳しくありません。彼は後に最高位である陸軍軍医総監になるのですが、「脚気が栄養からくる病」であることを彼が亡くなる大正11年(1922)まで認めなかったといいます。

 閑話休題。話がやや脇道に逸れ過ぎたようです。本論に戻しましょう。
 そばの栄養面での特徴は決してビタミンB1だけではありません。穀物の中でそばだけが含有している栄養素にルチンがあります。ソバは紫外線が強い高山で栽培されることが多いので、防御のため自己生成したと思われるポリフェノール(ルチン)が多量に含有されています。別名ビタミンPとも呼ばれていて、毛細血管を強め、血圧の安定に役立つ優れものとしてよく知られています。普通そば(栽培可能なのは標高1500mまで)で100g当たり15㎎、韃靼そば(1500m~4000mの高地でも栽培可能)になるとなんと1800㎎ものルチンを含有することが分かっています。盛りそば1人前でルチン1日必要量の約半分をカバーすることが可能であることも、そばのルチン含有量の多さを物語っているといえましょう。

 中国の高地・四川や雲南省の高地に住み韃靼そばを常食にするイ族は老衰以外で死亡する老人はいないとの報告(片山虎之介著「韃靼そば百科」)もあります。また故川崎晃一九大名誉教授等によるネパール高地民族の30年にわたる疫学調査からも高血圧が年齢や塩分摂取量の関数ではないことが明らかになっています。高血圧を成人病と考える日本とは大違いですね。

 もうひとつ日本でのお話を・・・私の会社時代の友人K氏が社用(故松下幸之助翁の命)で故酒井大阿闍(あじゃ)()(「比叡山千日回峰」2回達成者)にお目にかかったことがあり、その際に「満行のための体力はどのようにしてつけられたのですか」とお訊ねしたことがあるそうです。大阿闍梨は即座に「そばと水と寝ることです」とあっけらかんと答えられたということです。

 酒井大阿闍梨の伝記ともいえる「生き仏になった落ちこぼれ」(著者・長尾三郎)を読むと、・・・「荒行が始まっても、酒井の食生活はいたって質素なものだった。一日の行から戻り、老師の世話をしたあと、自分の食事をとる。メニューは、そばかうどん一杯、ごま豆腐半丁、ジャガイモの塩蒸したのを二個。これだけである。同じものを夕方にもう一度食べる」と書かれています。「堂入り」の9日間と「十万枚大護摩供」の7日間の断食・断水はもちろんですが、その間に100日間の「五穀*と塩断ち」があります。この期間は、うどんも豆腐(小麦・大豆は五穀に入る)も食することが出来ません。

 五穀断ちの期間だけでなく千日回峰を通じて「そば」は体力維持のために無くてはならない重要な役割を果たしていたのです。 

 蛇足ながら、我々が日頃口にする穀類(白米・小麦等)の中でそばは最も栄養バランスの良い食品であることを申し添えておきたいと思います。B1含有量もムギよりもソバの方が約60倍も多いことは案外知られていないのです。

 *「五穀」の内容は地域によって多少異なりますが、延暦寺では米、大麦、小麦、大豆、小豆を五穀としています。

 

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