蕎麦の常識非常識⑪
  歌舞伎・落語と「蕎麦」はご縁が深い・・・

 歌舞伎・落語と蕎麦は歴史的に関係が深い、といったら驚かれますか?

 出雲の阿国が京都の四条河原で歌舞って見せた慶長8年(1603年)をもって歌舞伎発祥(ちょうど江戸幕府開幕と時を同じくする)とするのが一般的ですが、現在の歌舞伎のように男性役者だけが演じ、物語性があって、天井に屋根のある小屋の中で演じられるようになったのは1600年代後期から1700年代にかけてのことでした。芝居小屋を市村羽左衛門が買い取り市村座とした(1652年)のが近代歌舞伎の出発点だと言われています。

一方、江戸におけるソハキリの初見は「慈性日記」の慶長19年(1614)2月3日の「ソハキリ振舞被申候」の記載なので、両者はほぼ時を同じくして上方、江戸に現れたと考えて良いと思われます。

 そのためか、歌舞伎と蕎麦は殊の外に縁が深く、歌舞伎の演題に蕎麦が登場することはもちろん、「大入りそば」や「とちりそば」等の習慣も古くから続いていますし、福山(蕎麦屋)が市村座の東隣にあったので芝居小屋や芝居茶屋への蕎麦の出前が多かったといいます。

 蕎麦が登場する歌舞伎の演題では、「助六由縁江戸桜」(正徳3年・1713年・江戸初演)と「雪暮夜入谷畦道」(明治14年・1881年・東京初演)がその代表格といわれています。季節感や時代背景を浮かび上がらせる役割の一端を蕎麦に担わせているのだろうと推測しています。

 「助六由縁江戸桜」では福山の印半纏姿の「かつぎ」(出前持ち・写真参照)を舞台に上げて、「美男、子安や馬の鞍、六軒堀を飛び出して、大芝,芝口食いつめて原田屋の子分となり・・・」の長啖呵切らせました。美男・子安・・・はすべてそば職人の口入宿の名前で、江戸時代から昭和初期まで蕎麦屋にそば職人を斡旋するのを業としていたのですが、戦後は職業安定法が施行され口入屋はなくなりました。かつぎを舞台に上げたのは、その出立と台詞が「江戸っ子の粋」とぴったりだったからでしょう。

「雪暮夜入谷畦道」では、雪の降る寒い夜道を急ぐ頬かむりに尻をはしよった直次郎が、蕎麦屋で温かい汁蕎麦を啜る場面が有名です。直次郎(5代目尾上菊五郎)の「かけ蕎麦」の粋な食べっぷりがあまりにも見事だったので、観客から拍手が起こるのを常としたといいます。この直次郎のそばの食べ方を見て、江戸を懐かしむ庶民たちはこれを真似たのです。

 歌舞伎と蕎麦の関係は舞台の上だけでなく、舞台裏にまで及んでいました。

 その一つが「とちりそば」です。

 舞台上で台詞をとちったり、出を間違えたりした場合に、おわびに関係者全員に蕎麦を振る舞ったことが始まりで、現在もこの習慣が続いているそうです。とちりの程度によって「盛りそば」であったり、「ざるそば」や「天ぷら蕎麦」であったり、場合によっては「うな重」もあったといいます。面白い習慣だったのですが、現在では「コーヒー券」に変わったと聞きます。味気のないお詫びになってしまったのですね。

 「大入りそば」(写真参照)は観客席が満員になったときに、祝儀として蕎麦が関係者に振る舞われたもので、長く続くという縁起をかついで蕎麦が選ばれたのでしょう。

明治29年(1896)9月の明治座で初代市川左団次一座の興行の際に公演期間25日間全部を売り切ったことがあり、そのとき、近所の蕎麦屋(福山)の印を押した切手を袋に入れて配ったのが、大入り袋の始まりとされているのですが、江戸時代からあったという話もあり、諸説いずれが正しいか決めがたいのが現状のようです。いずれにせよ縁起をかつぐ歌舞伎らしく「(大入が)長く続くように」という思いを込めて「大入りそば」と呼ぶようになったのです。

その後、二銭銅貨、さらに五銭白銅貨を入れるようになり、第二次世界大戦中は廃止されていたのですが、戦後復活し、現在では5円玉、50円玉、500円玉(5が付く数字のお金で「ご縁」があるようにという縁起を担ぐ)を入れるのが普通です。金銭のではなく、勘亭流の赤文字で書かれた「大入袋」(名前入り)を貯めるのが習わしだったそうです。

 

 さて落語の方は如何でしょうか?

 江戸時代の落語の食べ物ネタには「蕎麦と鰻」が多いといいます。お馴染みの「時そば」をはじめ「そば清」、「疝気の虫」、「蕎麦の隠居」、「不昧公夜話」、「蕎麦の殿様」等が蕎麦ネタの代表です。

「落語」の起源は、戦国時代の大名のそばに仕えた「おとぎ衆」のおもしろ可笑しい夜話がもとになっているといわれていて、 その「おとぎ衆」のひとりであった浄土宗の僧・安楽庵策伝は、「醒睡笑」(全8巻・1039噺・元和9年・1623)という本にこれらの夜話をまとめたので落語の祖と呼ばれています。(落語研究家・興津要・早稲田大学名誉教授)

江戸に寄席が現れたのが寛政10年(1798・下谷稲荷社境内)のこと、それが文化・文政時代(1804~1830)頃には100軒を超える隆盛を極めたといいますから驚きです。改めて歌舞伎や落語と蕎麦の普及の同時代性を実感します。

落語と蕎麦の関係は、単に演題に蕎麦が取り上げられていることだけでなく、当時の蕎麦食の姿を描写していることで、蕎麦の歴史書の役割を担ってくれているともいえます。風鈴の音を鳴らしながら屋台を流して行く様や、割りばしやせいろ・丼等が使われていたこと等、当時のそば食にまつわる風俗・習慣が分かるのです。特筆されるのは、蕎麦を啜る際の仕草と誇張された食音でしょう。独特の食音(ズッーズッー)は落語のラジオ放送によって作られたとする説もあるほどなのです。

時刻を聞くことでそばの勘定をごまかしているのを目撃した間抜けな男が、それに痛く感心して真似をして見事に失敗するという皆さんご存じの滑稽話なのですが、そばを勢いよくすする音を本当にそばを食べているように表現するのが、「時そば」の見せ場だそうです。

松江の第七代藩主、松平治郷(不昧公・1751~1818)は趣味人として知られ、茶の湯、和菓子、蕎麦を特に好んだといわれています。

「茶をのみて道具求めて蕎麦を食い庭をつくりて花を見ん その他大望なし 大笑 大笑」と自らの道楽を詠んだのは良く知られていますが、その不昧公を主人公に作られたのが古典落語「不昧公夜話」です。

不昧公が夜蕎麦売りの風鈴の音に誘われてお忍びでそばを食べてすっかり感動し、自らそば打ちを学び腕も上がったので、江戸赤坂の本屋敷に徳川御三家を招いて、自ら蕎麦屋の出で立ちで風鈴を鳴らしながら登場、手際よくそばを打ちあげて振る舞ったところ、三公は痛く感心したものの、一本の箸(割り箸)をどう扱ったらよいのか当惑している様子なので、江戸っ子がやるように前歯にくわえてパリと割ってみせると、三公そろって「う~ん、割り箸なるものは口で扱うのであるか、なるほど・・・」という一席です。

 最後に、歌舞伎座(東京)裏にある蕎麦屋「歌舞伎そば」をご紹介して本稿を終えたいと思います。「歌舞伎そば」には観劇前後に訪れる常連客、歌舞伎俳優も多いとか・・・。「かきあげ蕎麦」が人気メニューといいます。東京で歌舞伎をご覧になる機会があれば、話のネタに訪問されてみるというのは如何でしょう。お薦めです。今でも盛りそば一枚400円、かき揚げ蕎麦490円(令和5年4月10日現在)で食べさせてくれますよ。

 *「歌舞伎そば」は4/30に閉店した、ということを6/1に友人からの連絡で知りましたので訂正させて頂きます。
  個性的な蕎麦屋がまた一軒なくなることは残念なことです。


                            
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