蕎麦の常識非常識

  
「ジャパンブルー」の名付け親をご存じですか?

 サッカーの日本代表チームやWBCの侍ジャパンの活躍ですっかり「ジャパンブルー」が有名になりました。

ところで「ジャパンブルー」の命名者は日本人ではなく、外国人だということは案外知られていないようです。実は、明治7年(1874)に明治政府の招きで来日した英国人科学者ロバート・アトキンソンが「ジャパンブルー」の真の名付け親なのです。

アトキンソンは、明治7年~明治14年の間、二度にわたって日本に滞在し、東京開成学校および東京大学で教授として分析化学・応用化学や農学関係を教えた人物ですが、日本に藍染めの衣服を着ている人があまりにも多いのを見て驚き、著書「藍の説」のなかでこれを「ジャパンブルー」と呼んだのが始まりだといいます。

江戸時代の後期、まだ日本人の約八割は農民でした。農民の多くは野良着を着用しており、そのほとんどは藍染めの木綿だったのです。その上、商人や職人の多くも、藍染め木綿の衣服を着用していたので、日本人のかれこれ九割近くが藍染めだったと考えられます。しかし、なぜそんなに多くの日本人が藍色の着物を着ていたのでしょうか?

最大の理由は、江戸時代に幕府から度々発せられた「奢侈禁止令」にあるようです。絹は贅沢品として着物だけでなく帯や半襟にも使用が禁止され、庶民の衣服の素材は木綿と麻だけ、色も茶色・ねずみ色・藍色の三色だけに限られていたのです。色とりどりの衣服を着る欧米諸国と比べ、初めて日本を訪れた外国人の目には、新鮮にも異様にも映ったことでしょう。
それから16年後、明治23年に、来日したラフカディオ・ハーン(小泉八雲)もまた、「藍染の青」に感動したひとりで、著書「日本の面影・東洋の第一日目」に「青い屋根の小さな家屋、青いのれんのかかった小さな店舗、その前で青い着物を着た小柄な売り子が微笑んでいる」「見渡す限り幟旗(のぼりはた)が翻り、濃紺の暖簾(写真参照)がゆれている」「着物の多数を占める濃紺色は、のれんにも同じように幅を利かせている。もちろん青、白、赤、といった他の色もちらほら見かけるが、緑や黄色のものはない」と、ほぼ濃紺一色に染め上げられた日本での初印象を述べています。

幕府が出した禁止令によって町民たちは藍色を使わざるを得なかったのですが、使い込むと味わいが出てくる地味な藍色をいつしか「粋」な色と考えるようになり、藍色の着物や風呂敷を使い、店の暖簾も藍色にするようになったというわけです。江戸の町には「紺屋」と呼ばれる染物屋が数多く誕生し、藍色は江戸の町を席巻して行ったのです。浮世絵の世界でも藍色が多用され、「広重ブルー」「北斎ブルー」と今日呼ばれるほど大流行したのです。

もうすこし歴史を遡ると、鎌倉武士たちも鎧兜や直垂(ひたたれ)などを深い藍色に染めるのを常としていたといいます。深い藍色は褐色(かっしょく)とも呼ばれるので、これを「褐色(かついろ)=勝ち色」と読み替えて縁起をかついだのだといます。さらに藍色は、中国の思想家・荀子(じゅんし)の「学は()って()む可べからず。青は、(これ)を藍より取りて、藍より青く、氷は、水之を為して、水より寒し」(「出藍の誉れ」)の言葉のように、藍色は学んだ師を超える象徴として大事にされた側面もあったのではないでしょうか。

さて、藍色について聞きかじりの蘊蓄を傾けてきましたが、本題である藍色と蕎麦の関係はいったいどうなったのかと・・・尋ねられそうですね。

盛りそばやざるそばを食べる際の漬け汁を入れる「そば猪口(ちょこ)」を想い出してください。そば猪口の原点は、白い磁器の肌に、藍色を使って描かれた様々な絵柄が描かれた古伊万里の磁器にあるのです。

民芸運動家であり思想家でもある柳宗悦に「あのそば猪口といわれる器を見よ。その小さな表面に描かれた文様の変化は実に数百に及ぶ・・・」「この蕎麦猪口ぐらい衣装持ちは無いと言える」(柳宗悦「藍絵の猪口」)と言わしめたほど、そば猪口に描かれた絵柄はあらゆる食器類の中で、他と比較にならない程バラエティーに富んでいます。植物、動物、天体、風景、そして幾何学模様・・・(写真参照)。

宗悦がいう数百どころか、実際には数千とも、数万?ともいわれるほど数多いのです。しかも単なる文様ではなく、江戸時代の人たちの思い(物語)が秘められた文様なのです。ご興味のある方は是非、岸間健貪著「絵解き謎解き 江戸の蕎麦猪口」をご一読下さい。

もっとも最初からそば汁の容器として作られたのではなく、当初は雑器として様々な用途に使われていたのですが、江戸時代中期になり「そば切り」が普及するにつれ、次第にそばつゆを入れる容器として定着したといわれています。したがって「そば猪口」の名が付けられたのは比較的新しく明治に入ってからのことです。

そば猪口の大きさは、口径が約7㎝、高さがそれより少し低い程度、底の経4~6㎝くらいで。形が逆台形をしているのが普通です。その形が猪の鼻に似ているところから「猪口」と呼ばれるようになったというのが巷の説です。

 

日本では、「タデアイ」という植物から藍が作られています。タデアイはソバと同じタデ科に属する一年生の植物で、江戸時代の昔から阿波国が中心で、現在も日本のタデアイの7割が徳島県で栽培されています。

原産地は中国またはインドシナ半島といわれており、日本へ伝わったのは6世紀頃・奈良時代といわれています。青色の染料として重用されていて、平安時代までは主に宮廷や上流貴族が身に着ける高貴な色とされており、法隆寺や正倉院にも布類が多数保管されているといいます。

一時は藍色で全国を染め上げていた日本も、江戸末期にはインド藍(インディゴブルー)の精製されたものが輸入されるようになり、日本の藍は大打撃を受けました。さらに、化学染料の藍が発明されるようになった大正時代以降は、日本の天然染料の藍は、ほとんど生産されなくなってしまっていたのです。昭和期になると日本人はすっかり藍染めのことを忘れてしまい、「ジャパンブルー」の実態は既になくなってしまっていました。が、そこへ再び「ジャパンブルー」にスポットライトが当てられたのです。

現代版「藍染の着衣」といえばジーンズでしょう。瀬戸内海に面した岡山県倉敷市児島は、1960年代年代に日本で初めてジーンズをつくった国産ジーンズのメッカです。市内には多くのジーンズメーカーがあり、体験工房を作ったり古い商店街を「児島ジーンズストリート」に再生させたり・・「藍染」は静かですが着実に昔の面影を取り戻しつつあります。

 


                            
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