蕎麦の常識非常識⑬

   明治維新で江戸の食生活は一変した

明治維新によって大政奉還が実現し、265年続いた徳川幕藩体制は崩壊をしました。当然のことながら、江戸市中の激変は凄まじいものがありました。徳川家及び幕臣と家族・家来(約20万人)、諸藩江戸詰の武士と家族と家来(約18万人)だけでなく、関係した町人を加えると実に推計(最大)約40~50万人が江戸(東京)を離れていった可能性があります。その見返りに京都から天皇家・公家達や、それに連なる京・大坂の職人達、そして薩摩・長州からも新政府樹立のために多くの人たちが東京(江戸)に流入してきたのです。

勝海舟は「(すい)塵録(じんろく)」の中で、明治維新の前後で江戸から去った人口は、駿府へ徳川家と一緒に移った者約7万人(1.4万家)、武家奉公人約10万人(2万家)、横浜等へ移った町人約2万〜3万人(5千家)、合計約20万人に及ぶと控えめに述べています。当時の江戸の総人口を仮に120万人とすると、実に最大で40%、勝海舟の見立てでも20%に及ぶ人たちが入れ替わった(江戸・東京の総人口は明治10年頃には元に復している)ことになります。上方を中心に地方からも東京に人が大勢流れ込んできたのです。江戸の庶民文化に大きな変化が起こるのは必然でした。

そこへ「文明開化」が追い打ちをかけたのです。洋食・洋装・ざんぎり頭・ガス灯・人力車・太陽暦・・・・欧米の近代的な思想の紹介等々・・・どっと西洋文明が流入して来ました。なかでも、食文化の変化は凄まじいものでした。

明治4年に明治政府は1200年にわたって禁止してきた肉食を事実上許可し、むしろ奨励する方向へ舵を切り、翌年には明治天皇が牛肉を試食されるに及んで、江戸市民は一斉に牛鍋に走り出したのです。牛鍋屋を舞台に文明開化の世相を書いた「牛店雑談()()()鍋」(仮名垣魯文著)は「士農工商、老若男女、賢愚貧富おしなべて牛鍋食わねば開化不進奴(ひらけぬやつ)」と書き立てました。明治10年には東京市内の牛肉屋の数は588軒にまでなったといいます。

最も日本的で江戸っ子好みの「蕎麦」に異変が起こるのは、むしろ当然のことでしょう。岡本綺堂は著書「江戸の思い出」の中で、蕎麦屋を取り巻く当時の世相を次のように伝えています。

「わたし達の書生時代には、綺麗な蕎麦屋に蕎麦の旨いのは少ない、旨い蕎麦を食いたければ汚い家へ行けと昔からいい伝えたものであるが、その蕎麦屋がみな綺麗になった。そうして、大体においてまずくなった」

「近年はそば屋で種物を食う人が非常に多くなった。カレー南蛮などという不思議なものまで現れた。ほんとうの蕎麦を味わうものは盛りか掛けを食うのが普通で、種物を食うのは女子供だったが、近年はそれが一変し、銭のない人間が盛り掛けを食うということになったらしい」

「地方の人が多くなった証拠として、饂飩を食う客が多くなった。蕎麦屋は蕎麦を売るのが商売で、蕎麦屋へ行って饂飩をくれなどというと、田舎者として笑われたものであるが、この頃は普通のそば屋ではみな饂飩を売る」

「鍋焼きうどんなども江戸以来の売り物ではない。上方では昔から夜泣き饂飩の名があったが、鍋焼きうどんが東京に入り込んできたのは明治以降のことで、夜そば売りも今ではみな鍋焼きうどんに変わってしまった。中にはシュウマイ屋に化けたのもいる」と憤るのです。

上方の食習慣が入り込み、江戸っ子好みの食べ方が次第に駆逐されてゆく姿が、綺堂の口惜しさと共にリアルに描かれています。その上に牛鍋に代表される洋食文化の流行がそば・寿司等を隅に追いやるのに拍車をかけたのです。蕎麦や寿司職人達は職を失い、ついには東京を追われて地方へ流出して行きました。

十年ほど前になりますが、私が静岡の老舗蕎麦屋「安田屋本店」を訪れた時、ご当主からお聞きした「当店は慶応2年にこの地で創業したのですが、蕎麦打ち職人が東京から職を求めて次々と来店するので対応に苦慮した、・・と子供の頃に祖父からよく聞かされた」という話とも符合します。

喜田川守貞は著書「守貞謾稿」(1837~1867年頃)の中で、「蕎麦屋は1~2町に1戸あり。(中略)・・・万延元年(1860年)にはその戸数3763店」と伝えているのですが、明治維新後は著しく蕎麦屋が減少し、「明治39年に、そば屋の数ざっと600軒という記録が出てくる。・・・東京では、それほどまでにそば屋の需要がなくなったのか」(岩崎信也著「江戸っ子はなぜ蕎麦なのか?」)と言わせるまでに減少したのです。

もちろん食文化の変化だけでなく、茶道・華道も武士階級の消滅で、後ろ盾を失い旧時代の遺物として全く顧みられなくなり、茶道・家元制度ともに存亡の危機に立たされました。歌舞伎も外国人が見て荒唐無稽と思われる筋立てを改めるよう市当局から指示され、市川團十郎などを中心にして演劇改良運動が始まりました。1878年(明治11年)には新富座が洋風建築で再建され(右下写真)、華々しく開場式が行われたのですが、ガス灯が灯され、軍楽隊が演奏する中、座元の12代目守田勘彌、九代目團十郎をはじめとする歌舞伎役者は燕尾服で式に臨んだといいます。

それだけではありません。明治4年には断髪令が出され、明治天皇が髷を切り落とすに至り(明治6年)、武士はもちろん、町人の風俗にも大変化がもたらされました。「ちょんまげ頭を叩いてみれば、因循(いんじゅん)姑息(こそく)の音がする。総髪頭を叩いてみれば、王政復古の音がする。(さん)(きり)頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」という流行歌(はやりうた)が歌われたくらいです。

 いうまでもなく、明治維新と共に起こった日本の文明開化は内発的なものとはとてもいえず、鹿鳴館に象徴されるような行き過ぎや、一部は滑稽さを伴う物真似でもありました。しかし、日露戦争が始まる頃には、民衆の中にもナショナリズムの台頭とともに伝統文化へのリバイバル現象がみられるようになってきました。日本文化とりわけ江戸文化はその日まで上方文化と西欧文化の狭間を彷徨することになったのです。

 


                            
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