蕎麦の常識非常識⑭

     S・ジョブズは「なぜ蕎麦が好きになった」のか?

 故スティーブ・ジョブズが「無類の日本好き」だったことは有名な話です。

 アップル社といえば、時価総額が三兆ドル(約440兆円・・2023・6・30現在)を超え、東証一部上場企業株式総額の約半分に匹敵する超巨大企業ですが、盟友S・ウオズニアクと共にアップル社を立ち上げたのは47年前、彼がまだ21歳の学生だった頃のことです。appleⅠでパーソナルコンピューターの概念を世に普及させ、ipodやitunesで音楽業界に変革を起こし、iphone・ipadでコミュニケーションの世界にも革命を起こした天才・革命児であることは今更説明するまでもなく周知のことです。

 彼が生み出した数々の製品は、機能性・便益性のみならず、その美しく斬新でシンプルなデザインでも世界のアップルファンを魅了しています。ジョブズは自らのデザイン哲学の原点を次の様に述べています。

「シンプルにするっていうのは、複雑である事よりずっと難しいんだ。 シンプルなものを生み出すには、思考をシンプルにしなければならないからだ。 しかしそうする価値はある。 そこに到達できれば、山をも動かせるからだ」・・・と。

 また、ジョブズは製品の外装だけでなく、内部の基盤にまで美しさを求め、チップや回路をもっとシンプルで魅力的な配置にしたいと考えていたといいます。技術者たちの、マザーボードをのぞく者など誰もいないという反論に対しジョブズが返したのが次の言葉でした。「偉大な大工は、見えなくてもキャビネットの後ろにちゃちな木材を使ったりはしない」(桑原晃弥著『スティーブ・ジョブズ名語録』PHP文庫)

 このジョブズの美的センスの原点に日本文化、とりわけ「禅」の影響が強く作用していることはこれまでにも再三いわれてきたところです。

 彼が日本文化と最初に出会ったのは、彼がまだ10代の頃のことで、親友だったビル・フェルナンデスの自宅に飾られていた日本の浮世絵師・版画家・川瀬()(すい)(1883~1957)の「新版画」(左の写真は作品の一例)だったと、2021年7月に放映されたNHK「スティーブ・ジョブズ『美』の原点」は報じました。しかしジョブズを日本文化へ深く傾倒させるようになったのは、巴水の「新版画」を知ってから数年が経ってからのことなのです。

大学をドロップアウトし、インドを放浪してはみたものの、人生で何をすべきか探しあぐねていた20歳だったジョブズは、シリコンバレーの実家近くにあった小さな禅堂を訪れ、ここでひとりの日本人と運命的な出逢いをしました。それが乙川(おとかわ)(こう)(ぶん)師・曹洞宗大本山・永平寺から派遣された禅僧だったのです。
 「自分の心と直感を信じる勇気を持ちなさい。それはどういうわけかあなたが本当になりたいものをすでによく知っているのだから。それ以外のことは、全部二の次の意味しかない」という乙川師の言葉に深く強く影響され、ついに彼の確信「シンプル・イズ・ベスト(機能的なものはシンプルである。美しいものもまたシンプルである)」にまで至らせたのです。
 「我執をすっかり捨て、自分を空っぽにすることで、物事や自分のありのままが見えてくる」「坐禅で直感が花開く」とジョブズ自身に言わしめたのです。

ジョブズは企業としての成功よりも、自分が生み出した革新的な製品で世界を変えたいという気持ちのほうが強かったように思われます。その意味で彼は事業家というより「アーティスト」だったのかもしれません。

 ジョブズは「禅」を通じて日本文化全般に通底する思想に深い関心を持ち、それに触れるため家族とともに度々京都を訪れています。W・アイザックソン「ステイーブ・ジョブズ」Ⅰ・Ⅱ巻によれば、常宿は日本風情いっぱいの俵屋旅館と決まっていて、好きな寺巡りでは臨済宗の西芳寺(さいほうじ)(苔寺)の常連でしたし、好きな和食の中でも「蕎麦と寿司」が何よりの好物で、よく晦日(みそか)庵河道屋を訪れたといいます。他のお店で蕎麦を食べた後でも、また「晦庵 河道屋」に戻ってくるほどお気に入りだったのだそうです。蕎麦は素材がそば粉と水だけ、和食の中でも群を抜いてシンプルな食べ物です。調理時間も粉の状態から出来上がりまで30~40分もあれば十分。ジョブズはすっかり蕎麦のシンプルで飾り気のない姿に惚れ込んでしまったようです。

 拘りの人一倍強いジョブズは、ついに日本人女性シェフを東京築地のそばアカデミーに送り修業させ、アメリカのアップル本社食堂・Cafe Macsにジョブズ考案の「刺身そば」なるメニューが加わったのです。カリフォルニアのクパチーノ市にあるアップル本社(右の写真)の設計も、円形を一筆で描いた禅宗でいう円相(えんそう)の形を描いています。ジョブズの「禅」への思い入れの強さを改めて感じます。

そういえば、ジョブズのあの黒いタートルネックスタイルも、シンプルと機能性を備えた三宅一生の作品でした。あらゆる夾雑物を排し、洗練さを極めたジョブズのモノづくりの背景に「禅」の存在があることは間違いない事実といえましょう。

最後にジョブズが残した名言の一つを飾って本稿を終えたいと思います。

「あなたの時間は限られている。だから他人の人生を生きたりして無駄に過ごしてはいけない。ドグマ(教義、常識、既存の理論)にとらわれるな。それは他人の考えた結果で生きていることなのだから。他人の意見が雑音のようにあなたの内面の声をかき消したりすることのないようにしなさい」

但しこれは、稀代の天才ジョブズにして初めて言える言葉ではないでしょうか。

 

                            
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