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蕎麦の常識非常識⑲ 木曽路は「そば切りの歴史街道」です 「木曽路はすべて山の中である」の書き出しで始まる島崎藤村の「夜明け前」は、アメリカ海軍のペリー来航前後(1853年)から幕末・明治維新(1868年)の激動期の社会とそれに翻弄される人々を、中山道の馬籠宿を舞台に描いた力作ですが、本稿では木曽路が持つもう一の顔をご紹介したいと思います。 木曽路は江戸と京を繋ぐ江戸時代の基幹道である中山道のうち、三十三番・贅川宿から南へ向かって四十三番・馬籠宿までの十一宿を指し、藤村のいうようにすべて山の中を通る街道なのですが、同時に贅川宿の一つ手前の三十二番・本山宿を含めると、「蕎麦の初・・」がずらりと並ぶ、他に例を見ない「そば切りの歴史街道」というに相応しい街道とも言えるのです。
元禄元年(1624年)創業の越前屋は、かつては旧中山道に面した場所にあり、多くの旅人が訪れ大繁盛だったといいます。喜多川歌麿の浮世絵にも描かれていますし、十返舎一九はその様子を「木曽街道膝栗毛」(1822年)の中で「それより寝覚めの立場にいたる。此ところ蕎麦切の名物なり、中にも越前屋といふに娘のあるを見て、名物のそばぎりよりも旅人はむすめに鼻毛のばしやすらむ・・・」と伝えています。 立場(茶屋)というのは、宿場間にあって、旅人や人足、駕籠かきなどが休息する場所のことで、もともと杖を立ててひと休みしたので付けられた名前だそうですが、多くは宿場の出入り口や風光明媚な場所に置かれ、越前屋のように蕎麦や団子など土地の名物を提供していたようです。 越前屋の名物は「寿命そば」ですが、これは浦島太郎の長寿伝説にあやかろうというところから名付けられたものです。すぐ近くには浦島太郎が昼寝をしたという巨大な岩石(「寝覚めの床」)もあり、太郎が使ったとされる釣り竿も展示されていて、浦島太郎伝説を楽しめる観光地でもあります。 定勝寺は「そば切りの名が出てくる最初の古文書」(「番匠作事日記」・1574年)が発見されたお寺で、そばの歴史を辿る上で一度は訪れなければならない寺院だといえるでしょう。 定勝寺の住職が記したといわれる古文書「番匠作事日記」には、「徳利一ツ、ソハフクロ一ツ 千淡内」と「振舞ソハキリ 金永」という記述があります。これは寺の本堂改修の竣工祝いとして、千村新十郎政直淡路守の夫人から「そば袋」が寄進され、金永という人物から「そば切りの振舞い」があったということを指しています。定勝寺には古くから小麦による麺作りの技法が伝わっており、ソバの産地でもあったことからして頷ける記述といえます。 定勝寺の古文書が発見されるまでは、1614年に書かれた近江の多賀神社の僧・慈性の日記が「そば切りの初見」とされていたのですが、「番匠作事日記」の出現で「ソバの初見」が一挙に40年遡ることになりました。恐らく実際の「そば切り」発祥はこれよりも少なくとも更に数十年は古いのではないでしょうか。 私が定勝寺を訪れたのは15、6年前のことですが、観光客も少なく、一人で本堂に掲出されている「古文書の写し」を見たことが懐かしく思い出されます。 正保元年(1645年)発刊の俳書「毛吹草」(編者は松江重頼)に「そば切りは信濃の国の名物、当国より始まる」とあるのが最も古いとされますが、芭蕉十哲の一人・森川許六(1656~1715年)の「本朝文選」(後に「風俗文選」)にも「そば切りといえば、信濃国本山宿より出て、あまねく国々にもてはやされける」とあり、本山宿「そば切り発祥の地」説の根拠となっています。 「そば切り」の発祥については、甲州・天目山栖雲寺説・福岡博多の承天寺説・京都禅林説などがあって、甲論乙駁・・中々決め難いのが現状です。 信州の郷土史家・故関保男氏は、長野郷土史研究会機関誌「長野(167号)」の「信州そば史雑感」の中で、私見であるがと断りつつ「初期のそば切りの資料は上方の方が多い。信州に限ってみても、僅かな資料ではあるが、初めは木曽方面に見え、中仙道沿いに次第に奥の方に普及しているように思われる。麺棒やのし板・包丁等の用具の普及を考えると、やはりそば切りは上方から街道沿いに普及し、寺院・大名・本陣から次第に庶民の間に広がってきた可能性が高いと考える」と述べています。 太田南畝(蜀山人)(1749~1823年)の残した狂歌に「本山のそば 名物と誰も知る 荷物をおろし大根」があり、古くからそば切りの名所であったことが分かります。
私も訪問時に伝統の味に舌つづみを打ったのはいうまでもないことです。 木曽路は文字通り「そば切りの歴史街道」なのです。 TOP ![]() |