旅行には“自然派”と“街(文化)派”があるそうですが、強いて分けると私は文化派で家内は自然派ということになります。 これまでも交互に行き先を決めることにしていましたが、今回は私に選択権がある順番でしたので迷うことなく“スペイン”にしました。 マドリッドとトレドには20年ほど前に行きましたが、バルセロナのサグラダファミリア(聖家族教会)をまだ見ていなかったからです。 幸い全行程快晴に恵まれ、南スペインの強い日差しとオリーブ畑と噴水を楽しみ、キリスト教とイスラム教の混合文化に全身を浸した刺激的・印象的・快適な12日間(2004・11・12〜11・23)でした。


旅 程 バルセロナ(2)→セビリヤ、カルモナ→ロンダ、コスタ・デル・ソル→グラナダ(2)→コルドバ→トレド→マドリッド(2)。

聖家族教会とガウディー建築を観る(バルセロナ)

1856年の都市計画でバルセロナの街は碁盤の目状に区切られ、建物も6階までに制限され整然とした美しい街でした。 ガウディーを理解する準備運動のためか、先ず「バトリオ邸」を訪ねました。 バトリオ氏はガウディーのパトロンといわれた人です。 写真のように殆ど曲線で構成されています。 一見奇異な感じもしますが、ガウディーにとってはこれがむしろ“自然”だったようです。 言われてみれば自然界って直線は無いですよね。 写真が小さくて見えないのですが、外観の装飾は主に植物が描かれています。 ガウディーは元々建築家ではなく彫刻家だったと聞きました。 成るほどと頷ける建築物です。 外観はド派手なのですが、内部は極めて機能的で住人本意の設計になっています。 スペインのアールヌーボーですね。 グエル公園も面白かったですが省略します。

 いよいよ“聖家族教会”です。 1882年の着工ですから既に120年は経っているのですが、今尚建築続行中です。 宗教建築物なので公的援助無しで、寄付と入場料で建築費を賄っているということです。 だから時間がかかるのでしょうね。 しかし最近は寄付が増えてきて建築スピードが上がってきたと聞きました。 内戦でガウディーの設計図が焼失したため、現在は“ガウディーの求めたものを探しつつ建築を進めている“(外尾悦郎氏)ということです。

外尾悦郎氏は聖家族教会唯一の彫刻家で、勿論日本人です。 日本人の彫刻家がガウディーを追い続けているわけです。 外尾氏の講演を今年の春に聴いたのですが、同氏は聖家族教会について「育っているものに完成は無い」と言っていました。 実際に建築現場を見て初めて言葉の意味が理解できたように思います。 

上の写真は聖家族教会の建築中の内部のものです。 建築中の建造物を見学させて「入場料」を取るのですから、普通では考えられませんね。 もう一つ判ったことは、何故“聖家族教会”というのかということです。 これまで各地で見た教会の彫刻や絵画は全て“イエス”と“マリア”のものでしたが、ここには父親の“ヨセフ“が出て来るのです。 マリアの”処女懐胎“はどうなるんでしょうね。 宗教的な意味については良く判りません。 

アルハンブラ宮殿とメスキータ寺院(グラナダ、コルドバ)

8世紀あまり続いたイスラム王朝の最後の砦となったのがグラナダの“アルハンブラ宮殿”です。 1492年イサベル女王の時代になって、イスラム王朝が崩壊しキリスト教徒のレコンキンスタ(国土再征服運動)が成就したわけです。 しかし宮殿があまりにも美しかったために破壊を免れ、むしろ増改築されながら今日まで保存されて来たようです。(写真の出来が良くない。

外観は質素なのですが、内部は当時の絢爛たるイスラム文化の水準の高さを誇っています。 壁や天井の色彩が経年変化で落ちてしまっていたのが残念でした。 

名曲「アルハンブラの思い出」(タルレガ)のCD(ホテル夕食時にギター演奏した楽団の)を記念に買って来ました。 

コルドバで見学した“メスキーター寺院(回教寺院)”は全く予備知識が無かたのですが、中に入ってみて吃驚してしまいました。 建物の前半分は四角形で典型的なイスラム寺院なのですが、後ろ半分は柱がアーチを描いていてキリスト教会になっているのです。 キリスト教とイスラム教が同居している状態です。混交文化とはこういうことを言うのでしょうか。 一神教というのはもっと苛烈なものと思い込んでいましたが、ここでは寛容さが際立ちます。 こんな例は世界にあるのでしょうか? それともスペイン的“いい加減さ”なのでしょうか。


「コスタ・デル・ソル」の白壁の家並みは美しかった。

 宗教建造物の話ばかりなので、ここで少しスペインの自然や食べ物のことについて触れてみます。 先ずは“太陽海岸“(コスタ・デル・ソル)です。 シルバーコロンビア計画って覚えていますか。 日本・通産省が1986年に策定し失敗した「シルバーの移住政策」のことです。 政策は失敗でもこの地に目をつけたのは流石だなと思いました。 雲ひとつ無い青空と強い日差しと地中海、そして山の緩やかな斜面に建てられた白壁の家並み、300Kmにわたる地中海沿岸をコスタ・デル・ソルと呼ぶそうです。
景色に見とれていて良い写真が撮れていません)


アンダルシア地方は世界一のオリーブの産地で、バスで移動するとそれこそ見渡す限りのオリーブ畑が続きます。 太陽の光はたっぷり要るが、あまり水を必要としないのがオリーブの特徴と説明を聞きました。

食べ物・飲み物の話ですが、美味しかったのはセゴビアでの“子豚の丸焼き”、写真(次頁)のように魚の干物のようになって出てきたのには驚きました。 セゴビアの名物料理だということで、陶器のお皿で切り分け皿を床に投げ捨てて割るというショーもありました。 皿で切れるぐらい肉が柔らかいことを見せるためだそうです。バルセロナで食べた“イカスミとシーフードのパエリア”も日本人の口に合う料理でした。 期待をしていた“ハモンイベリコ”(イベリコ豚のハム)は最上級の”べジョータ“を食べましたが、少し口の中がべとつく感じがして今ひとつでした。 シェリー酒、赤ワイン、ビールもそこそこでした。 人間の舌は保守的なものですね。

スペイン絵画も観て来ました。

バルセロナの“ピカソ美術館”では彼の15歳頃の勉強中の作品や“青の時代”のものが多く展示されていました。 ピカソの修行中の絵を見るのは初めてです。 マドリッドの“プラド美術館”は前回生憎の休館日でしたが今回はたっぷり見せてもらいました。 流石というほかありません。 当初の予定には無かったのですが、折角の機会だからということで“ソフィア王妃芸術センター”をスケジュールに挟んで貰い、“ゲルニカ”(ピカソ)だけ見てきました。抽象画は判りにくいのですが、強く訴えてくる迫力には凄いものがあります。

“中世の街トレド”を再訪しました。

前回訪問した時にはお伽の国にやってきたかと目を疑いました。 中世の街がそっくりそのまま残っているのです。 今回も同じ感慨に浸りました。 薄暮の時間帯にトレド入りをしたので、いっそう現実の世界ではないような感じがしました。 街が以前よりも綺麗になったと感じたのは、恐らく補修や改装が進んでいるためでしょう。 ホテルはトレドの旧市街を眼下に一望できる丘の上に建っていて正に絶景でした。 翌日徒歩でトレド旧市街を散歩したのですが、他民族・他宗教の文化が混交した様は彼方此方に見受けられ、日本文化の対極にあるともいえるスペインの歴史・文化に思いを馳せた一時でした。 そそり立つ大聖堂のきらびやかさは勿論ですが、トレドの住人であった“エル・グレコ”の作品群にも堪能しました。 

街中を巡る迷路のような路地、小さな窓の石造りの家、かつて世界最先端の英知が集められた街トレドには尽くせない愛着を再び感じて帰って来ました。

ローマ人の造ったセゴビアの水道橋

1800年前にローマ人たちが造った“水道橋”が、一部であるとはいえこんなに立派な姿で残っているとは不勉強ながら知りませんでした。 切り出した石を心棒も無ければ接着することも無く最高30Mの高さまで積み上げて造られた水が通る橋です。 いくら地震の無い国とはいえ、1800年の風雪に耐えてきたとは信じられません。 ローマ人の英知にひたすら感服するのみです。

スペイン旅行余談

今回のスペイン旅行は想像を越える異文化情報のラッシュで頭の中が引っ掻き回されたような気分です。 ただそれを中々文章に出来ないもどかしさを感じています。 5枚が限度だろうと思うので残念ながら後は省略します。

別の意味でも今回の旅行は収穫がありました。 それは同行者と添乗員に恵まれたことです。 9人のツアーでしたが皆さん個性的な方ばかりでした。 岡山の田舎から来られた“素朴”を絵に描いたようなご夫妻と奥さんのお母さん、大阪・天神橋と心斎橋でカフェのフランチャイジーをしておられる脱サラご夫妻、C電力会社OB(技術屋)の老夫婦と我々夫婦という組み合わせですが、それこそ毎日が野次喜多道中でした。 添乗員(女性)は宝塚歌劇の男役のような容姿の“仕切り屋さん”。 もういちどご一緒したいものだと思っています。

今回の旅行は最後までドラマティックでした。パリで乗り換えて日本に向かったのですが、一時間半ぐらい経ったバルト海上空で重症な急病人(若い日人女性)が発生し、医者の判断で反転して燃料を空中投棄した上でコペンハーゲン空港に緊急着陸をしました。関空着は3時間遅れましたが人の命には替えられません。