旧ユーゴからの独立戦争(1991〜1992年)が終わってもう15年になる。 出発直前には、隣国「モンテネグロ」ではセルビアからの独立宣言が出されたし、コソヴォには国連軍がなお駐留している。 そういえば、第一次世界大戦の火蓋が切られたのも近くのサラエボであった。 ここ数年復興が目覚しく、観光客も増加しているという。

 昨年は中欧内陸部(ハンガリー・スロバキア・チェコ)へ旅したが、今年はアドリア海岸の美しい景色が目当てだった。 スロベニアは森と泉、クロアチアはイタリアと共にアドリア海を挟む・・いずれも自然豊な国である。


 スロベニア・ブレッド湖畔(2)→クロアチア・オパティア(2)→プリトビチェ国立公園(1)→スプリット(1)→ドブロニク(2)→ザグレブ(2)

6/6〜17日 12日間の旅

 
フランクフルトを中継してオーストリア・クラーゲンフルトへ飛び、そこからバスで約一時間スロベニア・ブレッド湖畔へ到着する。 クラーゲンフルトへ向かう途中、飛行機から「アルプス連峰」が一望できたのは幸運であった。

 
アルプスの瞳「ブレッド湖畔」に遊ぶ


アルプスの山麓は流石に肌寒い。ブレッド湖はアルプスの東端に位置して、濃い緑の森の中にある周囲6kmのこじんまりした湖。ホテルからの夕景は旅の初日にしては贅沢なご馳走であった。

翌日、ブレッド湖畔の静かな佇まいがあまりにも美しいので、歩いて周遊する誘惑に駆られたが、先のこともあるので自重して馬車でゆっくり(約40分)一周する。

エメラルドグリーンの湖面にはユリアン・アルプスの最高峰トリグラウ山(2,864m)の姿が映し出されて美しい。サイクリング・乗馬・スキー・ゴルフも楽しめるリゾート地。

       教会のあるブレッド島とトリグラウ山

トリグラウ山はスロバニア人が一生に一度は登りたいと思っている、日本でいえば富士山に当たるらしい。 山と湖と島をワン・ショットでと思って写真を撮ったが、あまり成功していない。



湖と滝が美しい「ブリトビチェ公園」を散策する。


 フレッド湖から首都・リュブリアーナ市内観光を経て、ヨーロッパ最大(世界で二番目)といわれる「ボストイナ鍾乳洞」(全長27km)をトロッコと徒歩で見学する。 もっとも見学する部分は4kmほど。 鍾乳石が1mm成長するのに10〜30年かかるというが気の遠くなる話だ。

「緑の森の国・スロベニア」から「クロアチア」に入ったのは三日目、アドリア海に面したオパティアに宿泊する。 クロアチアきっての別荘地で、ヨーロッパ各地の富豪がビラを持っているらしい。 

翌日「イストラ半島」(クロアチアの西北地域)を周遊し、ローマ時代の円形劇場、世界文化遺産「金箔モザイク天井のエウフランシウス聖堂」等を訪れたが、途中立ち寄った漁村・ロビンの澄み切った空の青さと紺碧の海の調和に見とれて記念写真を一枚。  

  アドリア海は色の変化があって美しい。

                                         漁村ロビンとアドリア海

次の日は、アドリア海から離れて奥地へ、クロアチア高原の世界遺産「プリトビッツェ湖群国立公園」を訪れる。  大小16の湖とそれを繋ぐ92の滝からなっている公園の高低段差は150m。エメラルドグリーンの川が森の中を縫うように流れる様は幻想的としか言いようが無い。

中国の「九寨溝」を思わせる湖の青色。  滝の飛沫(しぶき)の中を2〜3kmウオークして運動不足の身体をほぐす。 それにしても今回のツアーは歩くことが多い。

独立戦争の際一時セルビア側の管理下におかれ「危機にさらされている世界遺産リスト」に加えられたが、現在は見事にかつての姿を取り戻しているように見えた。                

 
ホテルは森の中、翌朝小鳥の啼声で目覚める。

      プリトビッツエ国立公園の滝                                       



美しくきらめく「アドリア海岸」を一路南下する。

 
 雨のプリトビッチェを後に一挙にバスで265km南下する。 途中クロアチア最長のトンネル(名前は失念)を抜けると、そこはアドリア海、雲ひとつ無い晴天だった。(「雪国」の書き出しを思い出す)  晴天だが風が強く、大型バスが大きく横ぶれする。 裸山からアドリア海へ吹きぬける通称「ブラ」と呼ばれる名物の風は、最大は200m(秒速)にもなるという。                
 



         スプリット近くのアドリア海岸

 
 アドリア海岸を南下してスプリットを目指すが、途中「地雷危険マーク」
(骸骨に×)が散見される。戦争の傷跡がまだ生々しい。 

スプリットはクロアチア最大の港町、アドリア海クルーズの観光船と思われる中型客船も数隻停泊中であった。  またローマ皇帝(ディアクレティアヌス・245〜313年)が退位後に住んだ豪壮な宮殿跡があり、城壁に囲まれたロマネスク様式の大聖堂やアーチ型天井の神殿が残っている。 

少し疲れていたがライトアップされた旧市街地(宮殿跡もある)を散策する。 



「アドリア海の真珠」ドブロヴニクの絶景に見とれる。

 スプリットからクロアチア最南端の「ドブロヴニク」までアドリア海岸をひた走る。 絶景の連続。 空の青さとエメラルドグリーンの海、そしてオレンジ一色の屋根の色調が日本に無い非日常的な空間を創



出している。  その昔、削り取られ海中に沈んだ石灰岩片と太陽の光が演出する自
然の大舞台といえよう。  全長1700kmあるという海岸線は正に見所である。

  アドリア海を挟む西側のイタリア海岸線は直線的で島も少なく、反対にクロアチア側は海岸線の凹凸が激しく変化に富んでいて、中世より美しいだけでなく船の航路としても重用されたという。

スプリットとドブロヴニクの中間地点辺りでクロアチアは分断され、海岸線も10kmほど「ボスニア・ヘルツゴビナ領」になっている。  当然「パスポート・チェック」が必要で一瞬緊張するがさしたることも無く通過する。  写真を撮るほどのモニュメントも無い至極あっさりしたもの。

さてドブロヴニクだが、15〜16世紀頃にはヴェネチアと並ぶ貿易都市として栄えた歴史を持ち、現在も「アドリア海の真珠」と呼ばれる美しい町で、「城塞都市」とも言われ400年以上前の町並みを残している。 街全体が高い城壁に取り囲まれ、城壁の上は一周2kmの遊歩道になっていて街全体を見渡すことが出来る。  

到着翌日の午後、一周1時間の「城壁ツアー」に参加する。  オレンジ色の屋根がぎっしりと並び、狭い路地網の目のように伸びる。城壁上の遊歩道を歩いていると、現実の暮ら
しが手に取るように見え・聞こえし、遥か昔へタイムスリップしたような錯覚を覚える。

城壁・遊歩道から旧市街を望む        

 1991年の独立戦争でセルビア軍に砲撃され大打撃を受けた街は、それと判る残骸も彼方此方に残っている一方、復興を告げる新しい屋根も目立つ。 もちろん世界文化遺産の指定を受けている。 



アドリア海の彼方に沈む夕日に名残を惜しむ。

 幸か不幸か、出発直前に起こったクロアチア航空のスケジュール変更によって「アドリア海の彼に方に沈む夕日」を見ることが出来た。  写真はドブロヴニク空港に近いレストランから見た21時過ぎの夕日である。  天空いっぱいを赤く染める夕日は、日本のそれよりもずっと大きく見えた。



 夕日を見ることが出来たのは「幸」の部分だが、「不幸」の方は、ドブロヴニク空港を午後10時40分
発となったため、首都「ザグレブ」のホテルに着いたのは翌日の午前一時を過ぎていて、シャワーを浴びて就寝したのはとっくに午前3時を過ぎていた。 午前の市内観光には参加したが、午後の自由時間はホテルで休養に充てることになってしまった。


クロアチア旅行余談

例によって食事の話だが、イタリアの近くにある国で、しかもカトリックの国なので食事は美味いだろう(私は勝手に、食事はカトリックの国が美味く、プロテスタントの国は不味いと決めています)と見当をつけていたのですが、期待はずれでした。 もっとも、烏賊、牡蠣、ロブスター、手長えびなどのアドリア海鮮料理は日本人の口に合っていて同行者の評判も良かった。

  6/13はワールド・サッカーの「クロアチアvsブラジル戦」のため、ドブロブニクの町はひっくり返ったような大騒ぎ、道路は駐車でいっぱい、カフェはどこも超満員で道を歩くと歓声が彼方此方から聞こえる状態。  私が地元サッカーチームの帽子を冠って歩いていると、彼方此方から声がかかってきた。  恐らく「日本も頑張れ!」etc。  もし、6/18の日本戦に滞在していたらどうなっていたのか?

  ツアーに参加すると旅先で日本人に会うことが多いが、今回は一組の日本人団体にあっただけで、観光客は多いが殆ど日本人らしき人影を見ることはなかった。  それでも道を歩いていると「こんにちは、ありがとう」と声がかかる。  彼らには「日本人」がわかるようだ。 

  アドリア海岸の美景が売り物で、ヨーロッパの観光客が多く、7月以降の夏場は大変混んでくるという。  日本で知られているのは、サッカーとマグロくらいか。  

       先ずはアドリア海とドブロブニクの美しさに満足して帰国したふたりでした。

                          
                                終わり