琵琶湖一周、十六日の旅
            
 健康には「歩くことが一番だ」といわれて、現役を退いた翌朝から散歩を始めた。
東京・奥沢の社宅から九品仏・浄真寺までの往復約三キロをルートに定める。朝の慌ただしい時間帯の住宅街を抜けて浄真寺参道に入ると、俄かに静けさが帰ってきて、両側に立ち並ぶカヤとイチョウの大木が、心地よさと安らぎを与えてくれる。落ち葉集めのボランティアと交わす挨拶も、さわやかな一日の始まりの定番になっていった。
 やがて東京での残務が終え、帰阪することになる。半年ばかりは引き続いて自宅周辺の散歩を続けていたのだが、単調な道筋と景色に飽きてしまい、いつの間にかジム通いに変わってしまっていた。
 そんな時、ある旅行会社のチラシの「ぐるり琵琶湖一周ウオーク」の文字が目に飛び込んできたのである。
 琵琶湖一周220Kmを十六回に分けて、毎月一回日帰りで仲間と一緒に歩くという企画だ。これに思わず飛びついた。琵琶湖の四季に惹かれたからである。自宅の最寄駅から目的地まで、毎回バスで送迎してくれるのが嬉しい。
 琵琶湖は懐かしの地であった。大津の琵琶湖畔と瀬田川・南郷洗い堰近くには十年余り住んだことがある。三井寺・近江神宮・義仲寺・石山寺・岩間寺・立木観音などには、子供達の成長と重なり合って、夫々に感慨深い想い出が残っている。
 琵琶湖の歴史は古い。縄文早期の昔から人が住みつき、七世紀半ばには僅か五年ではあったが「近江宮」が置かれたし、戦国時代には武将達の天下取りの大きな夢舞台でもあった。
また、琵琶湖の自然にまつわる民話・伝説も多い。利き腕を失い、不治の病にたおれ、三十五歳の若さで逝った女流日本画家・故三橋節子さんの「近江むかしばなし」の連作を思い出す。彼女の絶筆となった作品は、確か「余呉の湖の天女」の伝説であった。

琵琶湖を東回りで歩くのだが、出発地は瀬田唐橋近くの日本武尊を祀る「建部大社」の境内であった。昨年二月末のことである。
生憎の寒冷前線南下で、のっけから琵琶湖お馴染みの北西風「比良おろし」が吹き荒れる中の旅立になった。新しい旅人に、吹雪はいささか荒っぽい歓迎である。
ところが、雲の切れ目から太陽が顔を覗かせると、瞬時に豊な自然が帰ってくる。琵琶湖の表情は一瞬にして変わるのだ。以後繰り返し何回も何回も実感することになった。

 春の琵琶湖はやさしく穏やかである。野鳥の鳴き声が彼方此方から聞こえ、木々は力強く芽生えてくる。春を待ちかねた生物の営みを歩きながら全身で受け止める。対岸には比叡山・比良山系の山々が広がっていて美しい。煙って見える様がかえって興趣を増している。
 四月の長命寺は圧巻であった。十数キロ歩いて疲れた足に、止めを刺すように八百八段の石段が待っていた。段差の異なる不揃いの石段に、足は上がらず息は切れる。苦闘すること約三十分、登りきると、広がる眺望と湖を渡ってきた涼風が疲れた身体を慰めてくれる。汗まみれとはいえ、さわやかな印象深い「西国三十一番札所」詣であった。
 琵琶湖には島が四つある。南から順に、沖島・沖の白石・多景島・竹生島となる。沖の白石を除いて、他の三つは東岸に近い。
 まず見えてくるのは「沖島」だが、周囲六キロ、琵琶湖で最大、人の住んでいる唯一の島で、五百人が定住し、明治八年創立の小学校もあるという。<この小さな島に>とつい思ってしまう。明治建国時の為政者達が抱いた「教育立国」への強い想いが読み取れる。
続いて、彦根沖には周囲僅か六百mの「多景島」がある。見る方向によって島の形が美しく変化するのが名前の由来のようだ。
彦根・長浜は、東は伊吹山麓を抜けて美濃・尾張に連なり、北は「木の本」から若狭・越前へ、西は琵琶湖を隔てて京都に繋がる要衝の地であった。その地勢の故に、戦国時代の歴史が圧縮されて詰まった地域となったのであろう。
「関が原の古戦場」は長浜の直ぐ東側に広がり、北には「姉川・賎ヶ岳の古戦場」がある。戦国武将の居城も立ち並ぶ。井伊家の「彦根城」は山腹に美しい姿を見せ、「長浜城」は豊公園から望むことが出来た。長浜城は秀吉の築城であるが、「安土城」、湖西の「大溝城・坂本城」と共に、かつては琵琶湖に浮かぶ「水城」であった。信長は等間隔に四つの城を湖畔に戦略配置して、琵琶湖の通航を制していたのである。
歴史が通り抜けてきた道を、足早に我々も北に向かって更に歩を進める。

夏の湖はにわかに躍動的になる。湖上には若者達のマリーンスポーツ(?)が賑わい、浜には色とりどりのテント村が出現する。湖風が爽やかに吹いてきて、僅かながらも暑さから我々を援けてくれるが、帽子とサングラスは必需品になった。冬の鉛色に煙った沈鬱な琵琶湖を想像することは難しい。まるで違った湖だ。
「竹生島」の影が見えて来るのは長浜を余程過ぎてからのことであった。琵琶湖の北端に位置するため、最終的には南東北西の順に四方から眺めることが出来る。西国巡礼三十番霊場でもあった。
 ついでに四つ目の島「沖の白石」のことだが、西岸・安曇川河口東方五キロにある。島というよりは湖面に突き出した四つの石で、水鳥の格好の休息場所になっているという。水深八十mから電柱のようにまっすぐに湖面まで突き出ている姿は、想像するだけでも滑稽だ。

 湖北の山岳地域に入る頃は早や秋であった。
紅葉も終盤にかかっている。これまでの湖岸沿いの平坦な道から、急に険しい山道に入る。湖水も南湖と比べると一段と透明度が高く、美しい。
山道は木々に深く囲まれていて薄暗く、左側にかすかに琵琶湖の水面を感じながら歩く。
黄色スズメバチや熊の出現を気にかけながらのウオークである。リーダーは腰に熊除けの鈴をつけている。標高でいえば四、五百mのさしたる高さではないが、峰続きの縦走は平坦地になれた身体には堪える。落伍者も数名出た。「琵琶湖一周」の中で最難関といえよう。落紅葉の積み重なった厚みがクッションになって、疲れた足を癒してくれる。滑り易くはあるが、贅沢な彩りの絨緞であった。
最北端の塩津浜に着いたのは、十二月初めである。湖北は既に真冬であった。入り組んだ浜辺の突端に出ると、大粒の霰と強風に見舞われる。時間が経つにつれ気温は急激に降下する。夕暮れは思いのほか早く、まだ午後三時だというのに、夜の帳が近づく気配を辺りに感じる。恐らく今夜は雪だろう。
湖北は間も無く積雪期に入る。人気の無い静かな永い冬が訪れるのだ。ウオークも春が来るまでしばしの休みに入ることになる。

春とは言っても三月の湖北はまだ寒い。四キロにわたって桜並木が妍を競う海津大崎も今は裸枝が伸びるのみで、寒々とした淋しい風景である。降りしきる雨がレインコートを滲み透って下着までぬらす。
高木浜を歩いたのは四月下旬であった。海津大崎二千本の桜並木が淡く白く華やかに開花しているのが、遠目にもはっきりと見て取れる。どうやら満開のようだ。
湖西は、比良の山々が湖岸に迫ってきて、湖東に比べると平地が狭くなる。そのためか、舗装道路を歩くことが多くなってきた。琵琶湖は全体的に西側が沈降しているため湖盆が深い。そのため琵琶湖独特の「エリ漁法」も湖西には少ないという。
今津浜が近づくと、二千本といわれる黒松の防風林が五キロにわたって延々と続く。「日本の白砂青松百選」に入る見事さだ。江戸時代に植樹され、いずれも大木に育っている。
琵琶湖が最も広く見える「外が浜」に到着した。伊吹山・竹生島も対岸にはっきりと見え、琵琶湖が左右百八十度の視界からこぼれるほどに広がっている。豊かで伸びやかな眺望である。

「琵琶湖一周ウオーク」も終盤に近づいて来ると一日の歩行距離が次第に長くなる。夏場の一日十五キロ超は流石に堪える。
「近江舞子」をはじめ、湖水浴場の白砂と松の緑が美しいコントラストを作っている。三高生・小口太郎作詞の「琵琶湖周航の歌」、金沢四高生殉難を惜しんだ「琵琶湖哀歌」の誕生の地でもある。「四高桜」は今や老木となり、新しい植樹が進みつつあった。

九月十六日、ようやく最終日を迎えた。「雄琴」から「建部大社」までの十七キロである。<今日は、気合を入れて歩こう>と意気込む。
雄琴は一時期のすさんだ姿が消え、かつての田舎の温泉地風情を取り戻しつつあるように思えた。前方に見えていた比叡山が、やがて後に見えだす頃、ようやく大津市内に入る。安土城に次ぐ美城といわれた「坂本城」も、今は石碑が湖畔に残るのみ、中核部分は湖中に埋もれているという。
右に日吉大社・近江神宮・三井寺を指呼の間に捉え、左に琵琶湖大橋を遠望しながら湖畔公園の中をひた歩く。
「近江宮」があったと伝えられる「錦織」も直ぐ近くの筈だ。「壬申の乱」は天智天皇の跡を甥(子)と叔父(弟)の二人が争った、日本には稀な内乱であった。昔読んだ「天の川の太陽」(黒岩重吾)に描かれた古代のロマンが脳裏をかすめる。今も「大津京」の名が名残をとどめているという。

昨年二月にスタートした「琵琶湖一周ウオーク」も一年七ヶ月、十六回の回数を経て、ようやく最終章を迎えた。はるか昔に住んでいた、懐かしい「鳰の浜」のマンション前を通過する。当時は確か娘が中学生、息子はまだ小学生であった筈だ。
琵琶湖から瀬田川に入ると、大学ボート部の練習風景が見えるのは昔のままである。もうあと一息だ。
「瀬田の唐橋」を渡ってゴールの「建部大社」へ到着したのは午後三時を少し過ぎていた。御神木の三本杉と女神の木像がやさしく我々を迎えてくれた。

ただひたすら歩いた二百二十キロであったが、琵琶湖は毎月違った表情で我々を迎えてくれた。晴天の日は少なく、雨に悩まされることが多かった。一緒に歩く仲間の顔ぶれは毎回変わるが、それでも何人かの顔見知りも出来る。同窓会をやろうという声も出た。
「お疲れ様でした」と、交わす言葉も少しばかり懐かしく聞こえる。(06.10.11)