恩師・石本雅男先生を悼む

 昨日、存じ上げない方から自宅に小包が届いた。開封してみると、大学時代の恩師・石本雅男先生の遺稿集「一世紀を生きて」であった。先生のご息女夫婦から送られたものである。
 
 昨年の六月、突然大学の法学部ゼミの大先輩N氏から「石本先生が百歳を迎えられ、論文を発表された。『石本ゼミ』の同窓生でお祝いをしたいので賛同して欲しい」旨のお手紙を頂戴したのである。
 実は私も「百歳で論文、衰えぬ意欲」という新聞の記事を読んでいたので、異存のある筈も無く、承諾の返事と応分のお祝い金を送らせて頂いた。
 ところが、八月一日に新聞各紙が「石本先生のご逝去」を報じることとなったのである。
僅か一ヶ月余りの間の急な出来事であったので驚きもしたし、恩師を失ったことへの無念の思いも強かった。と、同時に「旧石本ゼミ」の動きが、先生のお耳に達していたのかどうか気になるところでもあった。

 先生は、大正十五年に京都帝国大学・法学部をご卒業になり、学究の道を選ばれたのだが、「学問の自由」への国家権力による弾圧として有名な「滝川事件」で大学を去られたのである。その後、関西学院大学をへて、昭和二十三年大阪大学・法文学部設立と同時に、教授として転じられたのであった。
 ご専攻は「民事学」であったが、「不法行為論」の第一人者として高い学問的業績を収めておられることで知られている。「無過失損害責任原因論」で「学士院賞」を受章された。先生は「無過失責任」の理論的根拠を「抽象的違法行為」に求められ、独自の画期的な業績を上げられたのである。
 当時「石本ゼミ」は学問的な水準の高さだけでなく、先生の「滝川事件」における潔い出処進退、重厚にして温和なお人柄に惹かれる学生が多く、人気の高いゼミであった。先生の謦咳に接する機会が与えられことになったのだが、私にとっては思いがけない幸運であった。
 石本ゼミでは「不法行為」に関係する判例研究が中心であったが、先生は当時流行の「法社会学」的接近の必要性は認めつつも、常に「法解釈学」を基本とする立場に一貫して立たれていた。
先生に学んだ「不易流行」はその後の私の人生に時として文鎮の役割を果たしてくれたともいえる。

石本先生遺稿集「一世紀を生きて」の「あとがき」に、先生が生前に我々の動きをお知りになり『何も欲しいものは無いが、その気持が嬉しい』と仰っておられたと記されていた。また「この本の出版は、大阪大学・旧石本ゼミ卒業生の皆さんのご芳志によるものである」ともあった。
我々の思いは確かに先生に届いていたのである。

 最後に五十年前の思い出を一つ。
私の就職の推薦状に、先生は「極めて重厚」と書いてくださった。これは先生のおめがね違いではあったが、私にとっては生涯忘れることの出来ない嬉しくも恥ずかしい贈り物であった。
(04・8・27―07・5・25改)