愛犬との出会いと別離(わかれ)

「ジュリ」が、オリバーさんに連れられて我が家にやって来たのは、まだ残暑の厳しい九月初旬のことである。
「ジュリ」は八歳(推定)になる雌のミックス犬で、二年前、空き家に遺棄されていたところを、動物シェルター「ARK(アーク)」に収容され運良く一命を取り留めた、いわゆる保護犬であった。
「ARK」(Animal Refuge Center Kansai)は、兵庫県能勢町の山奥にあり、保護されている犬猫の数は五百匹を超えるという。
英国人のエリザベス・オリバーさん(六十六歳)が十六年前に私財と寄付金とで創設した、日本最大規模の動物保護施設である。阪神淡路大震災当時、主を失った約六百匹の犬猫を救ったことで一躍脚光を浴びた。
 妻は数年前から知人を通じて「ARK」の存在を知り、その趣旨に賛同して寄付会員になっていたのであるが、古希を迎えた私と、還暦をとうに過ぎた妻とが、この老犬の里親になるのには些かの理由があった。

 十年前、かねてから体調不良を訴えて大学病院に通っていた妻が「脳下垂体に腫瘍があり、早期の手術が必要」と、突然の診断を受けたのである。転勤で大阪から東京へ住居を移して一年も経たない頃のことであった。
 既に子供達は独立していて、我々夫婦と八歳になる柴犬「チャド」が暮らしていたが、妻の急な入院で、はたと困ることが起こってしまったのである。犬の世話をすることが出来なくなったのだ。東京には親族もいないし、知人も少ない。
やっとのことで、友人の知人宅へ預けることになったが、「チャド」は<捨てられた>と思い込んだのか、その日から拒食を始めた。
医者の治療も受け、私も何回も足を運んだが、水以外の食物は殆ど口にしなくなっていった。見る間にやせ衰え、余病を併発して僅か一ヶ月あまりで亡くなってしまったのである。余りにもあっけない、予想もしない出来事であった。
幸い妻の病気は、腫瘍の摘出手術と三ヶ月の入院で全快したが、八年間、家族と生活を共にして来た「チャドの不幸」は、我々夫婦の心に悲しい傷跡を残こすことになる。

 この事件以来「動物を飼うことは二度としない」という夫婦の固い約束は、定年退職で大阪に戻ってからも守られていた。
ところが、この春先から妻が「チャドと同じ年頃の犬を飼って、最後を看取ってやりたい」と言い出したのである。最初は取り合わずにいたのだが、妻は次第に「自分の身代わりに死んだチャドへの償い」を口にするようになった。こうなってはお手上げである。
「ARK」で保護犬の姿を見て、恐らく「チャド」への思いを募らせたのであろう。
妻を伴って「ARK」を訪ねたのは、それから間も無くのことであった。その時、里子に薦められたのが「ジュリ」である。

 飼犬との悲しい別離の記憶が、実はもう一つ私にはあった。それは昭和二十一年に遡る、永く沈潜していた記憶である。
当時父が満鉄に勤務していた関係で、私と父母の三人は終戦を旧満州・奉天で迎えた。私が十歳、国民学校四年生のことである。
ソ連軍占領下の暗くて過酷な生活が一年間続いたのだが、学校も閉鎖され、多くの友達の行方も分からない中、愛犬「五郎」の存在は唯一の慰めであり、潤いでもあった。
が、別れの日は遠くなかった。翌年の夏、日本引揚げが決まったからである。「五郎」を帯同することは出来ない。家も家財も一切を捨てるのだ。「五郎」は数日分の食料と共に自宅に置き去りにした。断腸の思いであった。
帰国の日、我々家族は近所の人達と馬車で奉天駅へ向かったが、「五郎」は後をずっと追って来た。常でない何かを感じ取っていたのであろう。馬車との距離は次第に遠くなり、「五郎」はやがて路上に座り込み、そして見えなくなった。それが最後であった。
<誰かに拾われたか><餓死はしなかったか>と、引き揚げ列車の中でも、帰国してからも、暫くは脳裏を離れることが無かった。

里親として「ジュリ」との新しい生活が始まって三ヶ月を迎えようとしている。
当初は、淋しさのため遠吠えもしたが、今では老犬の割には食欲も旺盛、ボールを追って元気に庭も駆ける。懐いてくれるかと心配もしたが、それも杞憂に過ぎなかった。
今は「最期を看取りたい」という妻の希望が叶えられることをひたすら願っているのだが、私の心にも「五郎」への贖罪の気持が残っているのであろうか。