早世した親友S君のこと

「父が亡くなりました」
 朝六時を少し過ぎた頃、電話の鳴る音で目を覚ました私の耳に、親友S君の長女教子さんの声が飛び込んできた。
「えっ、どうして・・・」と、思わず聞き返したのだが「理由は・・詳しくは・・」と受話器から小さな嗚咽が洩れてくる。
 S君、五十七歳、自ら選んだとはいえ、あまりにも急な旅立ちであった。

彼に初めて会ったのは高校入学最初の登校日のことである。「茨木のSです、宜しく」と休憩時間に、彼から言葉をかけられたのである。律儀な挨拶であった。
中学持ち上がりの友人が少ないクラスだったせいもあって、座席が近かった茨木のM君、吹田出身のT君等と共に、親しくなるのに、そう時間がかかる筈もなかった。昭和二十六年春、十六歳のことである。
その頃彼は酷く中耳炎を患っていて、通院治療のために毎朝遅れて登校していた。校門から玄関までまっすぐ伸びた石畳を、学帽をかぶり小脇に鞄を抱えて、授業時間中を急ぐでもなく悠然と歩いてくる姿が、今もまぶたに浮かんで来る。彼の記憶を追いかけると必ず蘇ってくる情景の一つである。

ここに一枚の写真が残っている。舞台衣装の女生徒の中に兵士姿のS君と私の二人が立っている。二年生秋の文化祭「英語劇・白雪姫」に出演した時のものである。
英語教師の気まぐれで指名されたのであるが、二人にとっては突然降りかかった災難だった。確かなことは、英語の成績には一切関係の無かったことである。「イエス ユア マジェスティー」が、劇中唯一の台詞であったのが何よりの証拠であろう。
練習は順調に進んだが、我々の出番のところで頓挫した。「マジェスティー」のアクセントは「マ」にあるのだが、S君のは「マ」ではなく「ジェ」になってしまうからであった。教師から当然「ダメ」が入る。S君は緊張する。その緊張が「ジェ」のアクセントを一層強くさせてしまうのだった。
彼が脂汗を流し、顔を高潮させて大真面目で頑張るのだが一向に直らない。どれくらい時間が経ったであろう。それまで押し殺していた「くすくす笑い」が誰からともなく洩れ、ついにそれが爆発した。最後はS君も含め全員が腹を抱えての大笑いとなったのである。
そこで本番だが、S君は高らかにアクセントを「ジェ」につけて終わった。彼らしい幕の閉じ方であったと思う。

彼は高校入学時から将来の進路を「教職の道」と決めていた。父君の後姿を見て育ったためであろう。この決意は生涯を貫いて変わらなかった。
念願の神戸大学教育学部に進み、塩尻公明氏に師事し教育学を学んだ。確か卒論は「ペスタロッチの教育学」であった。
卒業後は高槻市で教員となり、赴任した小学校で、知的で美しい後輩の女性と知り合い、恋に落ち結婚する。友人達から「君には出来すぎた奥さん」と、集中砲火を浴びるのだが、彼は満足げに笑みを浮かべ終始無言であった。
最愛の伴侶を得た彼の喜びが伝わってくる楽しくも心地よい結婚披露宴であった。司会は自薦して私が務めた。

 時は流れ、髪に白いものが混じる年頃になると、いつしか我々も夫々責任ある立場に立つようになっていた。
彼は四十八歳で市内の小学校校長に就任する。異例の抜擢であったという。
その後も順調に実績を積み上げ、最後は中学校校長まで上り詰めたのである。奥さんも小学校の教頭を務めていて、評判のおしどり夫婦であった。正に順風満帆の人生かに見えたのである。
ところが、数年前から彼は体調不良を感じるようになっていて、そこに重度の白内障が重なり、元々神経質であった彼はすっかり健康への自信を失い、ついには「早期退職」を口にするようになっていた。
勿論、校長という重責も、人一倍誠実で真面目な彼には、大きな負担になっていたであろうことが推察できる。争いを好まない、優しい人柄であった彼の心にどのような葛藤があったか、今となっては知る由も無い。
 そんな中で決定的なことが起こった。最愛の妻の死という不幸な現実が突然彼を襲ったのである。自らの進退について相談するため、奥さんを伴い先輩宅を訪れた翌日の出来事であった。
 学校の教員室の机に突っ伏したままであったという。くも膜下出血であった。その日は彼女の記念すべき退職の日でもあったのに。S君は前夜の相談が深夜に及んだのが直接の原因ではなかったかと自分を責めた。
彼からの電話で事情を知り、居酒屋で他の友人と共に酒を酌み交わし慰めた。元気そうに見えたのだが、出口を失った彼の心の闇はより深かった。苦悩を察し切れなかった悔いがどうしても残る。

 教子さんから電話連絡を受けたのは、それから数ヶ月も経たない日のことであった。両親と二人の息女を残して妻の後を追ったのである。抗うことの出来ない強い「鬱」が彼を支配していたのであろう。

七月だというのに通夜は寒かった。彼の死を悼むかのように強風が吹き、それが冷たく身に沁みた。
ご母堂がぽつんと「親も子も残して・・・あの子は」と呟かれた言葉が今も耳朶に残る。
彼は不器用に人生を送った。が、不器用であったが故に、生涯を通じて誰よりも真面目で誠実な生き方が続けられたのではないか。

 彼の没後、早や十五年の歳月が過ぎた。
             (`07・3・25)