明治維新で首都激変 武士階級消滅と文明開化の波     16-9-1         
明治維新によって大政奉還が実現し徳川幕藩体制は崩壊した。当然のことながら、江戸の激変は凄まじかった。徳川家(20万)・
諸藩江戸詰(18万)、それに町人を加えると実に40〜50万人が僅か数年の間に江戸(東京)を離れたのである。そこに「文明開化」
が追い打ちをかけた。洋食・洋装・ざんぎり頭・ガス灯・人力車・太陽暦・・・「江戸文化」の総清算が始まったのである。牛鍋・洋食
の流行はそば等の江戸食を隅に追いやり、茶・華道は武士階級の消滅で存亡の危機を迎えた。歌舞伎も外国人が見て荒唐無稽
と思われる筋立てを改変するよう府庁より指示され、演劇改良運動が始まる。俳諧も「俳句」と改め連歌から独立して近代化を進
めることになった。かくして日清・日露戦争後に伝統文化復活の動きが出るまで江戸文化は一時的な衰退を招来するのである。
天望館(湯布院) 15-5-28 上段:瓦そば、下段そば玉 ゆたかや(戸隠) 13-7-18

そば専門店ではない。レストラン+土産物
屋だが、珍しい「瓦そば」なるものを食べに
入る。湯布院ICから二分。湯布院の街並
みが一望できる絶景のロケーションという
が、当日は濃い霧がかかり展望は不可。
上段:明治10年、西南の役で熊本城を
囲む薩軍の兵士達が「瓦」を利用して野
草や肉を焼いて食べた故事に因んだ
「瓦そば」。下段:新酒の「杉玉」のように
戸隠では「そば玉」が店頭を飾る。
 戸隠神社中社のすぐ傍にある。店主渡
邉林造が打つ十割そばはやや細め。「雪
がくし蕎麦」は秋に収穫した戸隠産の在
来種を雪の中で熟成させたもの。「蕎麦
コロッケ」も看板メニューの一つである。
 
江戸の蕎麦屋崩壊 喜田川守貞は著書「守貞謾稿」(1937〜67)の中で江戸の「蕎麦屋は1、2町に1戸あり」「万延元年、蕎麦
高価のことに系わり、江戸府内の蕎麦屋会合す。その戸数3763店
と当時の様子を記している。当時の江戸の人口は町方で約52
〜56万人(延享年間〜万延元年)、武家を合算すると推定100〜110万人になるが、計算すると蕎麦屋一軒当たり人口が約300人
という驚くべき数字になる。岩崎信也は「明治39年に、そば屋の数ざっと600軒という記録が出てくる。・・・東京では、それほどまで
にそば屋の需要がなくなったのか」(「江戸っ子はなぜ蕎麦なのか?」)と疑問を呈するが、岡本綺堂は「夜そば売りも今ではみな
鍋焼きうどんに変わってしまった。中にはシュウマイ屋に化けたのもいる」(「江戸の思い出」)と当時の江戸の実態を伝えている。
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